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岡山 具隆(おかやま・ともたか)/早稲田大学法学学術院専任講師  略歴はこちらから

試される読者
―『帰ってきたヒトラー』が私たちに突きつけるもの―

岡山 具隆/早稲田大学法学学術院専任講師

 (本稿を執筆している)いま、『帰ってきたヒトラー』という映画が日本で大ヒットしている。1945年に自殺したはずのヒトラーが現代のドイツに甦り、以前と変わらぬ巧みな話術と奇妙な偶然の積み重なりによってやがてテレビスターになっていくというストーリーである。2012年に発表された原作の小説は、ドイツでこれまで250万部を売り上げ、42か国で出版されているベストセラーとなっている。

 周知の通り、ドイツにおいてナチスの過去、とりわけヒトラーはいまだ扱いの難しいテーマである。ミュンヒェン現代史研究所が2015年で著作権が切れる『わが闘争』の注釈版を発表することが明らかになった際、その出版の是非をめぐって起こった論争は記憶に新しい。慎重派はたとえ注釈版でも『わが闘争』の出版を許せば、その危険な思想が再び拡散し、支持者を増やすことを危惧した。出版に賛成の立場の人々は、そうした一種のタブー化こそが、ヒトラーをいたずらに神話化するばかりか、ヒトラーと正面から向き合うことを阻害すると反論した。『帰ってきたヒトラー』は明らかに後者の立場に立つ作品である。南ドイツ新聞のインタビューで著者のティムール・ヴェルメシュは、この小説の執筆動機について、ドイツに溢れている画一的なヒトラー像、すなわち恐ろしい怪物としてのヒトラーのイメージを打ち破り、より開かれた形でヒトラーと向き合うきっかけをつくりたかったと述べている。ただ、そのようなアプローチは、ヴェルメシュの小説が初めてではない。戦争世代がやがていなくなる時代を迎え、ドイツにおける過去をめぐる公の場での議論は、より広い視点に立った多様なアプローチを許容するものになってきている。ヒトラーに関しても、『ヒトラー~最期の12日間~』(2004)など、彼の人間としての側面に焦点を当てた映画や展示会、さらには風刺漫画が発表されている。むろん、このような変化は、ドイツにおけるナチスの過去との取り組みの地道な積み重ねの上に初めて可能になっていることは言うまでもない。

『帰ってきたヒトラー』の大胆さは、彼を魅力のある人物として描いているところにある。そのために一部では強い批判にも晒されたが、ヴェルメシュの狙いはまさにそこにあった。パソコンやインターネットという最新のメディアに悪戦苦闘するヒトラーの不器用な姿や彼が初めて目にする現代社会に対する戸惑いのコメントにはしばしば笑わずにはいられない。ところが、それでもヒトラーはやはりヒトラーなのである。また次の面白いエピソードが始まったと思って読み進めていくと、ヴェルメシュの言葉を借りれば、まるでビンタを食らわされたかのように、突如としてヒトラーの恐ろしさを思い知らされることになるのである。例えば、飼い犬の糞を拾ってビニール袋に入れようとしている女性を見かけたヒトラーは、その女性は気が狂ったと思い、不妊手術を受けさせるべきだと言いだす。あまりの論理の飛躍に一瞬笑いそうになるかもしれないが、ヒトラーが言っていることはやはり恐ろしくて決して笑えるものではない。ここで先ほどまでヒトラーを笑っていた読者はハッとするのである。自分はヒトラーのことを笑いながらいつの間にか彼に少しだけ好感を抱き、あるいは共感さえ覚えるようになっていなかっただろうかと。『帰ってきたヒトラー』はこのようにして絶えず読者自身の価値観、倫理観に揺さぶりをかけ続け、その判断を試すのである。

 だが、現代社会に関する小説の診断は厳しい。そこで描かれるのは、情報が氾濫し、見通しの立たない時代にあって、自分にとって都合のよい部分しか見ようとせず、わかりやすく強いメッセージに惹きつけられていく人々の危うい姿とそれを巧みに利用するヒトラーである。小説は、ヒトラーがネオナチの暴力の犠牲になった結果、それまで彼と距離を置いてきた各党の有力政治家たちまでもが急にヒトラーに接近しはじめ、自分たちの党に引き入れようとするところで不気味に終わっている。これが単なる荒唐無稽なフィクションの物語などではなく現実の問題になりつつあることは、ドナルド・トランプをはじめ、世界各地でポピュリストが支持を拡大させている事実が示しているだろう。『帰ってきたヒトラー』はそうした動きに対する警鐘ともなっている。

 文学作品として本作に対するドイツの大手メディアの評価は概して高いものではなかった。ともあれ、長年自らもジャーナリストとして活躍してきた著者の現代社会に対する鋭く厳しい洞察は流石という印象だ。そして、独特のブラックユーモアを織り交ぜながら、読者自身の価値観、倫理観に揺さぶりをかけ続けていく挑発的な試みとして、この小説はやはり一読の価値があるだろう。

岡山 具隆(おかやま・ともたか)/早稲田大学法学学術院専任講師

2007年筑波大学大学院博士課程人文社会科学研究科文芸言語専攻満期退学。2013年より早稲田大学法学学術院専任講師。専門は現代ドイツ文学、特にギュンター・グラス。戦後のドイツ文学と「想起の文化」との関係について研究を続けている。