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堀内 正規(ほりうち・まさき)/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

詩人ボブ・ディランは何を語ってきたのか

堀内 正規/早稲田大学文学学術院教授

 語彙の選択やリズムや歌われ方といった形式を度外視して内容の側面だけを語ることは、詩を語る姿勢として間違っている。だが字数は限られているので、ボブ・ディランがデビューから今日まで〈詩人〉として何を告げてきたかを、あえて俯瞰的に、粗暴に捉えてみよう。リベラルなフォークソング運動が持つ、「白か黒か/敵か味方か」の二元論的な政治のスタンスを、ディランがキャリアの最初の2年ほどで捨て去ったあとの、60年代半ばの〈ロック〉時代の作品群こそが、ポピュラー音楽の歌詞として革命を起こしたものだった。既に『ミュージックマガジン』に書き記したので詳しく述べないが、そこでは「転がる石」のように生きることは人間誰しも免れない生存の在り方であり、homeへの方向が見えない、カオスのような流動する世界において、ディランがアメリカ大統領もときには「裸」で立たねばならないと言うとき、“naked”とは彼が先達ビートジェネレーションから引き継いだ生の条件だった。「リーダーには従うな、自分のパーキングメーターを見ろ」と言うディランは、実存的にただひとりで生きることを、聴き手に深く促したのだと言っていい。

 しかしディラン自身のその後の生の軌跡を追うと、最初の妻との離婚を経て、ユダヤ的な心性からキリスト教の信仰へと跳躍した70年代末から80年代末まで、彼にとっての「パーキングメーター」は、現世を超えた神の示す価値になったとわかる。それ以降現在にいたるまで、後期のディランは、一貫して個が生きるための揺るがぬ根拠を求め続け、同時にそれが絶対に得られない終末的な地上で、loveに救いを求めて心破れるという生の感覚を、歌い続けてきた。たとえばあまり聴かれることのないアルバム『ストリート・リーガル』(1978)所収の「ホェア・アー・ユー・トゥナイト」において「真実(the truth)は曖昧で、深遠すぎて純粋すぎる/それを生きるためにはひとは爆発しなければならない」と言われ、アルバム『ショット・オブ・ラブ』(1981)の録音時期に書かれた「ニード・ア・ウーマン」(『全詩集』集録版)で「神がデザインしたように真実を求める/だが真実を見出すより前に私が溺れてしまうかもしれない……ぼくには一人の女性が必要だ」と言われるとき、二つの間に生じたキリスト教改宗という出来事は、決してディランの創作の連続性を断ち切ってはいないことがわかる。「真実」がどこにもないというこの感覚はまた、60年代半ばから続くものでもあり、「ジョアンナのビジョン」(1966)の最後の「ぼくの良心が爆発する」や「エデンの門」(1965)の最後の「エデンの門の外側には真実はない」から、それほど隔たっているわけでもない。「真実」を激しく希求すればするほど、世界は意味を失くして混沌と化す――ここにディランの、誰とも比肩し得ない、狂気とさえ言える強迫観念がある。60年代のまるでカオスを高らかに歌うかのような作品群と、80年代の「ザ・グルームズ・スティル・ウェイティング・アット・ジ・オルタ―」や「フット・オブ・プライド」がそれほど違っているわけでもなく、終末論的な色合いを深めながらも、混沌を歌う詩人ディランは一貫して健在だ。

〈永遠〉の秩序の存在を願いながら、はかなく翻弄される現世の生を歌う、という意味で、ディランの世界観は、資本主義とテクノロジーが人々の生活を均質化かつ相対化する時代以前のもの、すなわち前‐20世紀的であり、カーター・ファミリーが採集したサザン・アパラチアのフォーク・バラッド的な心性と、第二次世界大戦以前のカントリー・ブルースのブルースマンたちが歌い継いだ、聖と俗の両方にまつわる精神を、ディランは継承している。とりわけ21世紀に入って以降、ディランはブルースやポップソングの形を借りて、loveゆえにさまよう(老年の)男の、正負双方の感情の間を揺れ動く心境を、しばしば描き出している。詩人は平易な単語で自在に韻を踏みながら、いっときのシミュラークルの遊びとして、物語のカケラの内側に入って、人間のエモーションを言葉によって象るのだ。そこには「アメリカの歌において〈伝統〉は〈ポピュラーなもの〉と完全に一体である」という彼の徹底的な確信がある。アメリカの大衆に支持されたポピュラーソングのすべての伝統を、彼個人のヴィジョンと言語感覚のフィルターを通してヴァージョンアップしていると言ってもいい。

 アルバム『エンパイア・バーレスク』(1985)の「トラスト・ユアセルフ」でディランは「ぼくが君に真実を示すと信じるな……ただ自分を信じろ」と言うが、まさしく彼が求める生の根拠は彼だけのものであって、依然としてわれわれが彼の詩から学ぶのは独自の美学とともに〈自分ひとりで立つこと〉だ。「見張り塔からずっと」(1967)で「泥棒」が「ジョーカー」に人生をジョークのようにfalselyに語るのをやめようと言うように、おかしくなった世界(the world gone wrong)において正気を保ち、誰の真似もせずに「ディグニティ」(自選による『グレイテスト・ヒッツ第三集』〔1994〕の収録曲のタイトル)を保つこと。ディランの詩の匠(art)に作用されることによって、その終わりない学びは可能だ。

堀内 正規(ほりうち・まさき)/早稲田大学文学学術院教授

【略歴】
1962年生まれ。専門はアメリカ文学。共著にMelville and the Wall of the Modern Age (南雲堂)、『ソローとアメリカ精神』(金星堂)、『シリーズもっと知りたい名作の世界⑪白鯨』(ミネルヴァ書房)、『震災後に読む文学』(早稲田大学ブックレット)など。来年刊行予定の単著『エマソン 自己から世界へ』(南雲堂)と『吉増剛造とアメリカ』(思潮社)二冊を準備中。ボブ・ディラン関係の論稿として「自己を他者化するパフォーマー」(『現代思想2010年5月臨時増刊号◎ボブ・ディラン』所収)など。