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那須 政玄(なす・せいげん)/早稲田大学社会科学総合学術院教授  略歴はこちらから

「内なる他者」とのおつきあい

那須 政玄/早稲田大学社会科学総合学術院教授

 自己の発生のために「自己が割れる」、これは正確な言い方ではない。むしろ「何かが割れ」て自己が発生するというのが適切である。「割れる」からといってこの事態が精神異常を意味しているのではなく、人間の自己のそもそものあり方なのである。自己意識によって、われわれ人間は生物界の頂点にいると考えられている。しかしこの自己(自己意識)は、何とも中途半端な形でわれわれに与えられている。これからなぜ自己は中途半端にしか与えられていないのかを考えてみよう。

 旧約聖書の創世記の第二・三章は、人間が自己意識を得るに至る過程がドラマチックに語られている。人(アダム)とその肋骨から造られたエバとが、禁断の木の実を食べてしまうことによって、彼らが裸であることがわかり恥ずかしくなる、というものである。この「恥ずかしさ」こそが、知恵の証しであり、自己意識獲得の指標である。エバはアダムの肋骨から造られたものであるかぎり、アダムに「従属」しているが、一人の人間として自立してもいる。つまり、エバはアダムの他者なのである。この場合の他者とは、「赤の他人」ではなく、自らの中の他者として、自分と関係のある他者なのである。

「自己が割れる」こと、つまりアダムから彼の他者であるエバが生じること、このことが自己意識の発生の根源なのである。その他に必要なものは、禁断の木の実の甘い刺激だけである。この刺激によって、アダムとエバは互いを自らの「鏡」と考えるようになった。

「恥ずかしさ」は、自らの裸が他者に映じていると考えることによって生じる。自己とは、他者に映った自らのイメージを自らが感じ取ることによって生じる。つまり他者なしには、自己は生じないのである。キルケゴールが「自己とは関係である」と語るのは、まさに自己は他者なしには生じないということを言わんとするものである。

 人間が自己意識をもったことは、まさにアンビバレントなことである。アンビバレンスとは、一つの事柄に二つの等価な視点があるという意味である。人間が獲得した自己意識こそ人間の栄光のしるしであるが、同時に人間の不幸の原因でもある。宗教はこの自己意識を極めて「面倒なもの」と考える。否、自己意識こそが人間のすべての苦悩の根源であると考えている。旧約聖書の失楽園は、人間が自己意識を獲得したことに対するペナルティーであるし、仏教は、無我こそが人間が到達すべき最高の境地であると考えている。

 宗教が、あの世を描き、そこへと向かう方法をいろいろと呈示するのは、自己意識の桎梏からの解放を願うからである。この解放は、「割れる」以前の場所への帰還によって可能となる。この場所は、楽園としてのエデンの園であり、極楽浄土である。

 それではなぜ人間はこのような素晴らしい場所から離れなければならなかったのか。離れなければその場所の在り処も大切さもわからなかったからである。別れて初めてその人の大切さがわかるようなものである。われわれは幼年時代、少年時代を甘い記憶の中で思い出す。過ぎ去った時が、懐かしく甘いものであるのは、過ぎ去ったあとで思い返すからである。時間が過去という他者を生み出す。今という瞬間は、瞬間であるかぎり何ものも生み出さない。しかし時間は、瞬間の持続を許さない。瞬間は過ぎ去る。そのとき瞬間は過去として現在の他者となる。現在の他者(過去)は、現在において「在る」にもかかわらず、現在以前にあったもの、つまり過去として位置づけられる。

 プラトンのイデアは、われわれが生まれる以前にあった場所であり、生まれ出るときにまったく忘れてしまった当のものである。理想(イデア)としてのその場所へ、われわれはもう一度戻ろうとする。このとき、過去のイデアと未来のイデアとが一致する。

「自己が割れる」とは精神的異常のことではない、と言った。自己をもつわれわれは、すでに自らの分裂を体験しているはずである。「自己」と自己の割れた結果としての「他者」とは、関係として互いに「自己主張」をする。自己と他者との関係における「自己」は、主体と呼ばれて基軸となり、「他者」は「自己」に従属するものとなる。しかし自己が関係であるかぎり、そこには基軸も従属もない。「他者」が主体としての「自己」を凌駕してしまえば、統合失調症(分裂病)という「症状」が現れ、逆に「自己」が「他者」をほとんど無視してしまえば自閉症という症状が生じるようにも考えられる。主体としての「自己」を傷つけない程度の適度な「他者」をもって自己を成立させることが、どうやら「正常」ということの内実のようである。

 フロイトやユングは、無意識の存在を、つまり自らのうちにある他者を明らかにした。無意識を消滅させ、意識のみで生きようとすることはまったく不可能である。自我(自己意識)をもってしまったわれわれ人間は、どのようにわれわれの内なる他者と付き合っていくべきであるのか、このことが現代の人間の最大の課題であるだろう。

那須 政玄(なす・せいげん)/早稲田大学社会科学総合学術院教授

1947年東京生まれ
1977年早稲田大学大学院文学研究科博士課程単位取得
1985年早稲田大学社会科学部助教授
1990年早稲田大学社会科学部教授
主な著書『結界と虚界』行人社1982年、『闇への論理』行人社2012年など