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水谷 八也(みずたに・はちや)/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

「怒り」と「熱」の翻訳

水谷 八也/早稲田大学文学学術院教授

新国立劇場の『怒りをこめてふり返れ』

 今年の7月、イギリスの劇作家、ジョン・オズボーンの『怒りをこめてふり返れ』(Look Back in Anger, 1956)が新国立劇場で上演された。そこで私は翻訳を担当していた。これは演出家の宮田慶子が新国立劇場の芸術監督に就任してから始めた「現代劇の系譜をひもとく」というシリーズのひとつで、『怒りをこめてふり返れ』がシリーズ最後の作品となる。イプセンから始まったこのシリーズは、日本の現代演劇に影響を与えた12作品を取り上げ、単に過去の名作を上演するというスタンスではなく、現代に上演する意味を問うべく、すべて新訳で上演された。

 『怒りをこめてふり返れ』は1956年初演で、12作品の中ではもっとも新しい作品であるが、翻訳は日本での初演(1959年)当時のものが図書館で読めるだけで、この先行訳には敬意を払いつつも、現在読むと、やはり古さを感じざるを得ない。演劇の翻訳で重要なことは、演劇が常に「今」にしか成立しない表現形式であることを意識することだ。翻訳された台本は文字として残ることもあるだろうが、しかしまず第一に考えねばならないのは、上演される舞台のことである。

『怒りをこめてふり返れ』と2017年、日本

『怒りをこめてふり返れ』舞台写真

 『怒りをこめてふり返れ』はイングランド中部が舞台で、労働者階級出身のジミー・ポーターがあらゆる旧世代の価値観、秩序に怒りをぶつけ、さらには中産階級出身の妻アリソンを愛しながらも罵倒し続けるという屈折した芝居だ。ジミーの怒りはあまりに激しいので、時に滑稽でもあり、その怒りがどこに向けられているのかわからなくなることもしばしばだ。もちろん、その背景には50年代のイギリスの凋落があるのだが、その理解を観客に求めることはできない。翻訳をする者としては、彼の怒りを知識として理解するのではなく(部分的にはそれがあってもいいのだが)、その熱を直接的に、具体的に感じてもらいたいのである。

 またこの芝居の設定自体は約60年前のイギリスであるのだが、実際に上演するのは2017年の日本である。ジミー、アリソンと言いながらも、演じているのは紛れもない日本人だ。だから1950年代の話をしながらも、舞台で上演している以上、必ず現在という時間ともつながっている。舞台には虚構の過去と現実の「今」が常に同居しているので、その「今」に耐えられる言葉を選択しなければ、上演としては失敗に終わる。だから何かの効果を狙っていない限り、言葉や言い回しの古さがあってはならない。とは言え、現代に媚びれば作品の本質が見えなくなる。現代に生きながらも、願わくば初演当時の観客が感じたような熱も作り出せればと志だけは高く、次元の異なったふたつの時間をうまく結びつけられはしないかと、原書のページを繰りながらその糸口を探していた。その糸口は一幕の最初の方にあった。

糸口はこれしかない

 幕が開き、ジミーの毒舌が調子に乗り始め、そのターゲットを妻アリソンに向ける直前に、彼は政治家である彼女の兄をこき下ろす。そこでジミーは"The only way to keep things as much like they always have been as possible, is to make any alternative too much for your poor, tiny brain to grasp."と保守層が現状を変えたがらないことを揶揄する。この部分を何度か訳し直しているときに、2014年の衆院選の保守政党の真っ赤なポスターにあったキャッチコピーを思い出した。そしてそのフレーズを使えば、この台詞はアリソンの兄を揶揄するだけでなく、2014年以後の柔軟性に欠ける偏狭なナショナリズム丸出しの政権批判としても響き得るのではないか。しかもほとんど原文の文意を変えることはない。

 ジミーの怒りは、ロンドンでの初演当時、保守的な旧世代からは嫌悪されたが、若者たちには圧倒的な支持を受けた。だからジミーの怒りが万人に理解される必要などさらさらない。保守層からは顰蹙を買っても、現状に不満を持つ者たちのくすぶった怒りに火をつけられればいいのだ。そして最終的にここは「現状維持のためには、別の選択肢があっても、私の弱い頭じゃわかりません、〈この道しかない〉って突っぱねることしか(ないんだよ)」という訳に落ち着いた。

原作が日本の現実を語っている

『怒りをこめてふり返れ』舞台写真

 「この道しかない」は戯曲の中に日本の現在を持ち込んだものだが、それがさほど不自然に見えないのは、『怒りをこめてふり返れ』の中に21世紀の現在にも通じる要因があり、それが戯曲の根幹に関わるからだ。だから逆に、芝居の終盤では、戯曲の方が現在に近づいているように思える箇所がある。

 ジミーとの生活に疲れ、逃げるように彼のもとを去ったアリソンが彼の子を死産して帰ってくる最後の場面。ジミーは静かに怒りをこめ、傷つき疲弊しきった妻を通して世界に対しての不満をぶつける。"The injustice of it is almost perfect! The wrong people going hungry, the wrong people being loved, the wrong people dying!"この台詞はまるで2017年の日本に向けて語られているのではないかと思えるほど、日本の現状と符合する。この数年の政権の不誠実! 貧困家庭の増加、愛を必要とする人たちの軽視、年間2万人を超える自殺者、そして弱者の切り捨て! これら2017年の日本の現実を重ねれば、ジミーの怒りは時空を超えて、観客の胸に飛び込んでくる。「不誠実もここまでくれば完璧だ! 食べ物を必要としている人が飢え、愛する価値もないような奴らが愛され、死ぬべきじゃない人たちが死んでいく!」 

翻訳者の使命

 『怒りをこめてふり返れ』は圧倒的な熱量を持った膨大な量の言葉で語られている。その言葉の意味を伝えることも重要だが、今回はその熱をどう伝えるかがさらに大きな問題であったように思う。ジミーの怒りの「熱」の翻訳…ヴァルター・ベンヤミンは「翻訳者の使命」の中で、原作から響いてくる「谺(こだま)」を自分の言語の中に呼び覚ますことが翻訳者の使命であると述べているが、『怒りをこめてふり返れ』の場合、この谺は「熱」に置き換えられるだろう。上演において完成を見る戯曲の言葉が観客の想像力を刺激し、観客すらもその谺=熱に触れることができたら、その時、古典は翻訳により再び生命を与えられ、生きながらえて、新たに古典として生き延びることができる。あの7月の舞台で、私は翻訳者の使命を果たせたのだろうか…

水谷 八也(みずたに・はちや)/早稲田大学文学学術院教授

学習院大学大学院人文科学研究科博士課程満期退学。現在、早稲田大学文化構想学部(文芸ジャーナリズム論系)教授。翻訳書にソーントン・ワイルダー『危機一髪』『結婚仲介人』、アリエル・ドーフマン『谷間の女たち』『世界で最も乾いた土地』など。戯曲の上演台本翻訳にドーフマン『THE OTHER SIDE/線のむこう側』、アーサー・ミラー『るつぼ』、ワイルダー『わが町』など。