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十重田 裕一(とえだ・ひろかず)/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

失われた東京の記憶を求めて

十重田 裕一/早稲田大学文学学術院教授
2018.11.12

1. 東京文学プロジェクト in ロサンゼルス

 私は生まれも育ちも深川である。そのためであろうか、東京という街にひとかたならぬ関心を抱いてきた。この空間がどのように変貌してきたかを知りたいという思いが、研究者を志した動機の一つでもあった。私の研究分野である日本の近代文学は、今からちょうど150年前の1868(慶応4・明治元)年に江戸が東京と改称され、日本の近代化とともに歴史が形作られてきた。世界の各都市を舞台に数々の文学が生まれたように、東京でもまた、魅力的な小説・詩・随筆があまた創作されている。文学作品には失われた東京の記憶が留められている。それを探究するために、私は国内外の研究者との共同研究を継続的に行ってきた。

 たとえば、2015年には国際シンポジウム(Tokyo Textscapes)を、翌2016年には国際ワークショップ(Reading Place in Edo & Tokyo)を開催した。これらはそれぞれ米国ロサンゼルスで、マイケル エメリックさん(カリフォルニア大学ロサンゼルス校上級准教授)と協働して企画したものである。エメリックさんとは、世界的な視点で日本文学を考える機会をつくり、国や言語、そして対象とする時代やジャンルで細断されている日本文学研究者の間での情報共有を図ることを目的とする研究プロジェクトを進めている。その一環として、ジェンダー・国籍・文化的アイデンティティなどの違いをこえて、他国の都市と比較しながら東京の文学の特色を検討する機会をもつこともできた。2年間にわたって実施したこのふたつの企画は、東京を舞台とする文学作品について世界的な文脈の中でより深く考える契機になったように思う。

Tokyo Textscapesのポスター

Reading Place in Edo & Tokyoのポスター

2. 東京百年物語

 そうした東京文学プロジェクトの成果の一部が、少しずつ形になりつつある。この秋から、上述の国際ワークショップで講演をされたロバート キャンベルさん(国文学研究資料館館長)、宗像和重さん(本学教授)との共編著『東京百年物語』全3冊(岩波文庫、2018年、)の刊行がはじまった。東京を舞台とする文学はあまりにも多い。また、森鷗外(1862~1922年)が小説「普請中」(1910年)の中で日本を「まだ普請中だ」と評したが、日本の首都、東京はいまなおその延長にある。そこで、江戸が東京と改称された1868年から、高度経済成長期の後半の1967(昭和42)年までの100年間に発表された作品について三人で協議して約50編程度を選び、東京が文学作品でどのように表現されてきたかをたどろうと試みた。

 日本の近代文学は、出版資本主義とともに発展し、東京の変容とともに形作られてきたと言っても過言ではない。19世紀後半から20世紀にかけて、人々の流入によって世界的な都市となった東京を舞台に、それまで以上に数多くの文学が生み出され、メディアの発達にともない文学の発信と受信の場がつくられてきたのである。変化し続ける日本の首都に関心を寄せ表現したのは、東京在住者だけでなく、地方から上京してきた書き手であった。日本語を母語とする人々ばかりではなく、リービ英雄さんのように、ノンネイティヴの魅力的な書き手も少なくない。

 同じ場所がとりあげられていても、作者や時代背景が異なると、その描写は大きく異なる。一例として、早稲田にゆかりのある東京人・夏目漱石(1867~1916年)と上京者・井伏鱒二(1898~1993年)をとりあげ、両者によって描かれた「都の西北」をみてみよう。

東京百年物語①一八六八~一九〇九 ②一九一〇~一九四〇 ③一九四一~一九六七(全3冊)
ロバート キャンベル・十重田裕一・宗像和重 編 岩波文庫
①2018年10月 ②2018年11月 ③2018年12月 発行
明治維新から高度経済成長期までの間に生まれた文学作品を通して、東京の100年を追体験するアンソロジー

注・編集協力者は、金ヨンロン・佐藤未央子・塩野加織・友添太貴の各氏。

3. 東京人・夏目漱石にとっての「都の西北」馬場下

 夏目漱石は、東京を舞台に魅力的な文章を数多く書き残した作家のひとりである。漱石が生まれた場所は、東京府が1878(明治11)年に制定した15区の中の牛込区(現在の新宿区)にあたる。15区の内訳は、麹町区・神田区・日本橋区・京橋区・芝区・麻布区・赤坂区・四谷区・牛込区・小石川区・本郷区・下谷区・浅草区・本所区・深川区である。

 小説「三四郎」(1908年)で、上京青年である主人公の小川三四郎に「どこまで行ても東京がなくならない」と語らせ、鉄道網の整備・普及によって東京が拡張していくさまを小説の中で描いている。漱石自身は江戸から明治にかけての転換期の東京で生まれ、生涯の多くの時期を東京市内で過ごし、「硝子戸の中」(1915年)において江戸の名残を留める生家のあった早稲田の記憶を、江戸町奉行が定めた江戸の内と外の境界にあたる朱引に言及しながら次のように記す。

私の旧宅は今私の住んでいる所から、四、五町奥の馬場下という町にあった。町とはいい条、その実小さな宿場としか思われない位、小供の時の私には、寂れ切ってかつ淋しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方にあったに違ないのである。

 江戸城の西北に位置する早稲田を、漱石は「辺鄙な隅の方」に位置すると回想する。漱石の回想する幼少期の早稲田は、江戸時代の名残を留めながらも、東京の中心からはずれた淋しい町という印象であった。

4. 上京者・井伏鱒二にとっての「都の西北」早稲田

 一方、漱石が亡くなった翌年(1917年)に広島県から上京した井伏鱒二もまた、早稲田について多くの文章を書いている。その中のひとつ、『早稲田の森』(新潮社、1971年)所収の随筆「早稲田の森―街のなかの森―」(『新潮』1971年3月号掲載時のタイトルは「街のなかの森」)で、井伏は早稲田について次のように記している。

去年の十一月、私は日経新聞に「私の履歴書」という雑文を連載するために、取材の目的で芭蕉川と箱根山を見に行った。ところが川も山も消えて無くなっていた。山のあったところには大きなビルディングが建ちならび、川が流れていたと思われるところはどこだか見当もつかなかった。

 井伏は、青春時代に過ごした早稲田の「川も山も消えてなくなっていた」ことに衝撃を受け、「消えた芭蕉川の成行きが知りたくて」、この川の道筋とその源流にあたる箱根山の消息をたどる。随筆「早稲田の森」では水の風景が鮮烈で印象的であり、井伏が水を湛えていた早稲田の記憶と郷里に近い鞆の浦の風景を重ねていたことがうかがえる。この文章が発表されたのは1964(昭和39)年の東京オリンピックから7年後のことであり、かつては東京の随所にあった川や堀が埋められ、高度経済成長によって東京の街が大きく変貌を遂げた時期であった。井伏は、早稲田にかつてあって、今は失われた川と山の風景を復元するようにして、「早稲田の森」を書いたのである。

 世代が異なるとともに、東京人である夏目漱石と上京者の井伏鱒二とでは記憶の内実は当然重なることはないが、失われた早稲田の記憶について書き留めている点では共通する。書き手がその空間でどのような経験をし、どこをいかに切り取り表現するかで、同じ地名であっても異なる相貌を呈してくる。東京で繰り広げられた物語の魅力と特色が、『東京百年物語』全3冊に収録した40人をこえる作家の文章から浮かび上がってくるだろう。

「特集 Feature」 Vol.11-1 世界的な文脈で対話する、国際日本学の未来へ(全6回配信) – 早稲田大学

十重田 裕一(とえだ・ひろかず)/早稲田大学文学学術院教授

1964年東京都生まれ。博士(文学)。大妻女子大学専任講師、早稲田大学助教授を経て2003年より現職。コロンビア大学・UCLA・スタンフォード大学客員教授などを歴任。専門は日本近現代文学。著書に『岩波茂雄 低く暮らし、高く想ふ』(ミネルヴァ書房、2013年)、『<名作>はつくられる 川端康成とその作品』(NHK出版、2009年)、共編著に『東京百年物語』全3冊(岩波文庫、2018年)、Literature Among the Ruins, 1945-1955: Postwar Japanese Literary Criticism(Lexington Books、2018年)、The Politics and Literature Debate in Postwar Japanese Criticism, 1945–52(Lexington Books、2017年)、『岩波茂雄文集』全3巻(岩波書店、2017年)、『検閲・メディア・文学 江戸から戦後まで』(新曜社、2012年)、『占領期雑誌資料大系 文学編』全5巻(岩波書店、2009~10年)などがある。