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小沼 純一(こぬま・じゅんいち)早稲田大学文学学術院教授 略歴はこちらから

この列島で、詩が、いまに

小沼 純一/早稲田大学文学学術院教授

 二〇一一年、あと一週間もすれば十一月になろうという時期、詩について、「「詩」という表現形式が、現代でどのような力を持ちうるものなのか」(原稿依頼のe-mailより引用)と考えることは、昨二〇一〇年のいまごろ、いや、八か月前であったなら、だいぶ違ったものだったろう。

 こんなことを記すのは、去る十月六日、ノーベル文学賞に決定したのがスウェーデンの「詩人」であったからではない。三月十一日の東北地方太平洋沖地震に、福島において被災、現地にとどまりつつ、その六日後からtwitterで詩を発表しつづけている詩人、和合亮一がいるからだ。

 あなたの街の駅は、壊れていませんか。時計はきちんと、今を指していますか。おやすみなさい。明けない夜は無いのです。旅立つ人、見送る人、迎える人、帰ってくる人。行ってらっしゃい、おかえりなさい。おやすみなさい。僕の街に、駅を、返して下さい。
 (詩の礫 2011.03.18.)より

 ここに記されているのは何だろう? 何が記されているのだろう? 「情報」だろうか? そうかもしれない。それはしかし、読むひとに何かを伝え、さらにほかのひとに渡したら、もうなくなってしまうものではない。何か残ってゆくものがここにはある。仮に情報、と呼んだとしても、in-formation、わたし(たち)の内(in-)で形成されるもの(formation)だ。

 詩は長い歴史を持っている。世界の至るところで詩は生まれ、耳にされ、記憶されてきた。反復され、書き写され、印刷され、暗唱されてきた。ここであらためてくりかえすまでもない。ことばはあらゆるところ、あらゆるときに寄り添い、そこにいないひとにむけて届けられる。そのかたちのひとつ、つよいかたちのひとつ、音を持つことばが音楽でもあるのが詩だ。

 本ばなれについて語られることは多い。そう言われつつ、かつてより多くのひとが文字には接しているのだという。紙に印刷されたものではなく、液晶ではあっても。そもそも、この原稿もそうではなかったろうか?

 詩はどうか。

 詩を読んだことはない、あっても教科書でさらりととおりすぎただけにすぎない。教師は受験に詩は出題されぬと言い、自分には「詩がわからない」からととばすこともある。暗唱など、いつの時代のことだったか。いま詩といったとき、学生がおもうのはポップ・ソングの歌詞、どこかの日めくりもどきに記されている文言か。いまも「詩」を書いているひとがいることに、詩集が出版されていることに驚く。読まれない、カネにならない、のにそうしたものが存在していることにあきれる。

 詩が読まれるとき、詩がすくなからぬ人たちの眼差しにふれるとき、この列島では、何かが失われたことに気づくときではなかったか。おもいおこしておこう。第二次世界大戦が終わったとき。戦後の復興のなかでひとの生活が変わっていったとき。

 ここで書かれるべきは、新しくノーベル賞を受けたトランストロンメルのこと、あるいは今年生誕150年の萩原朔太郎の、一か月のうちに80歳を迎える谷川俊太郎のことであるべきだったかもしれない。

 和合亮一の詩が、いま名を挙げた詩人たちのように、たとえばこの列島ではなく、もっとべつのところで、さらに時をこえて、読まれるかどうか、わたしにはわからない。むしろそのような「ここ」からはなれ、永続的に読まれたりすることをこそ疑問に付し、宙づりにすることが、「3.11」だったのではなかったろうか。

 和合亮一の詩は、詩集という本のかたちをとることはあっても、それ以上に、キーボードで打たれ、送信キーを叩いたら、twitterでほぼ即座に、読まれうる。日付があり、順番があり、しかし百四十字以内であることは、あたかもひとつの形式のように、決まっている。きれぎれに届き、余白を含め、さまざまなかたちをとって、ときに詩行は和合自身の近況や告知と前後しつつ、どれが告知でどれが詩で、どうつながってゆくのかを、否応なしに考えながら、目をはしらせる。読む。

 詩そのものは紙に書かれ、何度も推敲されているかもしれない。とはいえ、読み手に届くのはかならずしも容易には詩作品として全貌をあらわさぬ断片的な詩行だ。このきれぎれなありよう、寄る辺なく不安定なありようが、そのまま読み手に伝播する。けっして子どもが書いたようにナイーヴではない。そこには熟達したレトリックがある。しかし、そのレトリックは、ひとつひとつの、生で裸のことばと不即不離だ。

 先と同様、『詩の礫(つぶて)』として書きつづけられているものの一部を、この文章にふさわしいかどうかはわからないが、引いてみる――

 私たちは、それぞれが恐怖の猫を持て余している。ここまで書いていると、葉書が来た。「読むもんか」。人類は卑怯だ。「何が卑怯だ」。

 困ったときには頬を寄せて、すり寄り、駄目になると、毛嫌いして捨てようとする。「破いてやる」。だから読んで下さい。「読んでも、仕方ないじゃないか」。破く。

 街を返せ、村を返せ、海を返せ、風を返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。波を返せ、魚を返せ、恋を返せ、陽射しを返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。乾杯を返せ、祖母を返せ、誇りを返せ、福島を返せ。チャイムの音、着信の音、投函の音。

 夢があるのなら それをあきらめない それをあきらめるな 私をあきらめるな 自分を あきらめるんじゃない 命をあきらめてはいけない 無念の死を受け入れた たくさんの

 私たちのため

 身近にいるものにむけ、声が発され、届く。詩は本来そうしたものだったのかもしれない。あるいは、紙に文字を書く。ひとに届くためには、いくつもいくつも書き写さなくてはならない。手のかわりに印刷機が生まれる。かわりに時間を要するようになってしまった。

 新しいメディアについてかならずしも肯定できるわけではない。そのうえで、詩なるものがtwitterというメディアによって、これまでとは異なったありようを、意味を持つことはありうるのだろう。そして、それを知らしめてくれたのは、ひとの、この列島の将来を過去から切断したとき、というのは、どういうことなのだろう。

小沼 純一(こぬま・じゅんいち)/早稲田大学文学学術院教授

1959年東京生まれ。学習院大学文学部フランス文学科卒業。音楽批評・音楽文化論。
第8回出光音楽賞(学術・研究部門)受賞。
主な著書に『著書に『武満徹 音・ことば・イメージ』『魅せられた身体 旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』『ミニマル・ミュージック』(以上、青土社)、『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)。