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平川 幸子/早稲田大学国際学術院助教 略歴はこちらから

「たちあがれ日本」世代の血気
1953年アジア社会党会議を思う

平川 幸子/早稲田大学国際学術院助教

 桜も満開の頃、大学の入学式の光景を見て、新入生たちが皆、一様に就職活動用の黒いスーツを着ていたことに驚いた。あまりにも地味で窮屈そうだ。もっと驚くのは、同伴の母親たちのファッションの鮮やかさ、というか年季の入ったセンスのよさ。80年代、花の女子大生ブームを謳歌した世代が、溌剌とキャンパスに里帰りしている感じで、完全に主役は母親のように見えた。しかし、これでは、逆だろう。

 今、日本で血気盛んなのは若者ではなく中高齢層であることは、新党「たちあがれ日本」の結成からも明らかだ。あまりにも「フツーの人」ぽい民主党の若手政治家に比べると、彼らは見るからに「センセイ」だ。しかし、敗戦から戦後という日本の激動の半世紀をくぐり抜けた世代の「今、日本が危ない」という叫びは重い。彼らは、今回、反民主・非自民の立場から行動を起こした。

 アジア地域統合を研究している私は、1953年のアジア社会党会議を思う。シニア世代には、このネーミングだけで既に胸が熱くなるロマンチックな「元青年」も多いかもしれない。これもまた、「アジアが危ない」「たちあがれアジア」との思いに基づいた国際会議であった。当時、独立を果たして間もない多くのアジア諸国は、米ソの冷戦に巻き込まれ、再びアジアが大国の犠牲となり戦場にされるのではないかという切実な危機感を抱いていたのである。彼らは、反共産・非西欧の立場から、先行き不安な国際環境に対して独自のアプローチを目指した。

 この会議は、アジアの社会主義者の居場所を探す試みでもあった。1947年にソ連が米国の世界戦略に対抗する形でコミンフォルムを結成、各国の共産主義勢力を結集した。すると、今度はそれに対抗して、英国労働党の提唱で、社会民主主義者は「社会主義国際会議」(コミスコ)を結成した。これは共産党陣営の諸国家を「全体主義国家」と見なし、革命ではなく議会政治の中で社会主義の実現を目指す立場である。コミスコは1951年に「社会主義インターナショナル」として再編された。 社会主義インターに参加した16カ国は、日本とイスラエルを除いて全て西欧諸国であり、実質的には西欧社会党会議であった。当然のことながら、アジア地域における社会民主主義運動や植民地解放運動に興味はなく、会議で強調されたのは、「自由主義陣営を守るため」軍備強化を支持するという武装平和論であった。

 このようなインターの動向に対して、アジアの社会主義者たちはこぞって反発したのである。日本社会党も、1952年の党方針で「ヨーロッパ各国と比べて、インドやインドネシア、ビルマなどの社会党は、われわれの主張する条件ときわめて近い主張を行っている」と、非同盟中立路線を取るアジアの新興独立国への接近を表明している。かくして、同年、社会党が政権を握っていたビルマの首都ラングーンでビルマ、インド、インドネシア三国の社会党にオブザーバーとして日本社会党が加わり、準備会合が開催された。ビルマの社会党書記長ウ・チョウ・ニエンは、「アジアレベルでしか解決できない多くの問題に対処するために、活動を結束し組織化しなければならない」と趣旨を説明した。

 1953年1月、アジア社会党会議が開催され、ラングーンの市議事堂に14カ国、3団体、総勢200名を超える社会主義者が集まり、10日間にわたり独立組織の設置、社会主義の立場やアジアの諸問題などについて熱い議論を戦わせた。

 ところが、この会議は、現実には具体的な成果は出していない。決議や声明はどれも曖昧なもので、たとえば、外交方針として激論となった「第三勢力」や「中立」という政治用語は削除され、「両極政策に反対する」という表現にとどまった。主催国ビルマは自己主張を極力控え、ひたすらまとめ役に徹した。

 結局、アジア社会党会議が発揮したのは、「アジア」という連帯感、一体性であった。会議にはオブザーバーとして、社会主義インターから、元英国首相のアトリーが参加して西欧からの分離阻止工作に動いた。アトリーは首相時代に英領植民地の独立を承認した人物だから、アジア諸国には睨みがきいた。しかし、アジアの社会主義者たちは、70才の誕生日を遠いラングーンで迎えたこの大物政治家の説得にも耳を貸さず、アジア独自の組織を立ち上げたのである。

 つまり、彼らにとっては、あくまで「アジア」であることが重要だったのだ。では、そうであろうとした「アジア」とは何だったのだろうか? 地理的範囲ではないことは確かだ。経済的背景からは発展段階、民族的文脈からは人種など、いろいろ捉えられるだろう。しかし、この時、最優先されたのは、旧来のヨーロッパ発の考えに振り回されない、自由で平和な「アジア」というモラル空間を創り出すことであった。

 アジア社会党会議自体は長く続かなかった。が、この時の行動は、2年後のバンドン会議という歴史的成果につながっている。「たちあがれ日本」の発起人たちは、この時代のムードも記憶に持つ世代だから、変化の時代の乗り越え方を大いに示してほしい。また、対抗する民主党も、かねてからの宿題である「らしさ」を一刻も早くアピールしなければいけない。

平川 幸子(ひらかわ・さちこ)/早稲田大学国際学術院助教

【略歴】
早稲田大学アジア太平洋研究センター次席研究員・グローバルCOE「アジア地域統合のための世界的人材育成拠点」助教。早稲田大学政治経済学部経済学科卒業後、出版社勤務などを経て、米国タフツ大学フレッチャースクール法律外交大学院で国際関係学修士号取得後、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科博士にて博士(学術)号取得。専門は、東アジア国際関係史、日中関係、中台関係。主な発表論文に、「アジア地域統合と中台関係」『国際政治』158号(2009年12月)、「「二つの中国」ジレンマ解決への外交枠組み―「日本方式」の一般化過程の分析」『国際政治』146号(2006年11月)、“Portsmouth Denied: The Chinese attempt to attend” in Edited by David Wolff et al, The Russo-Japanese War in the Global Perspective: World War Zero II(U.K. Brill, 2007)など。