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岩村 充(いわむら・みつる)早稲田大学商学学術院教授 略歴はこちらから

「流動性の罠」からの脱出は可能か
日・米・欧、追い込まれた金融政策

岩村 充/早稲田大学商学学術院教授

 金融政策の基本は、景気や物価の情勢に応じて金利を上げ下げすることである。だが、大きな景気後退に対応してマネーすなわち流動性の供給をどんどん拡大していくと、やがて金利がゼロという下方限界に突き当たり金融政策が効果を失ってしまう。かつての大不況期にケインズが「流動性の罠」と呼んだ状況だが、それが再現しかかっているのが今日の日本と米国そして欧州である。先進国と呼ばれている国々の悩みはこれまでになく深いわけだ。追い込まれた金融政策に打つ手はあるのだろうか。

【インフレ・ターゲットは役に立つか】

図1:オイル・ショック後の先進各国の消費者物価上昇率

 金融政策で実現すべき金利の水準は、経済のファンダメンタルズや人々の景気観に加えて長期的なインフレ期待の強弱にも左右される。では、中央銀行がその政策目標とする物価上昇率を公にして実現を目指すと約束したらどうだろう。それで人々に適切なインフレ期待を生じさせることができれば、金融政策が機能不全に陥るリスクを小さくすることができることになる。これが「インフレ・ターゲット」と呼ばれている政策提案である。しかし、その実現可能性については時と場合を考えて評価しなければならない。

 図1は、1970年代に石油危機と変動相場制移行という大きな事件に見舞われて燃え上がった先進各国のインフレが、その後30年ほどの時間をかけて同時的に収束していく様子を描いたものである。むろん背景には各国の努力と政策協調がある。だが、それだけで、これだけ足並みの揃った動きは生じるのだろうか。それは無理というものだろう。当時そして現在の各国が抱えている様々な事情を考えると、個別の政策当局の努力を超えた大きな力に支えられていたのでなければ、これほどまでに見事なディス・インフレあるいはデフレへの一斉行進は実現できそうもないからだ。

 その力とは何か。それは市場の力だろう。この時期に急進展した情報通信革命に支えられて、かつての世界を支配していたコスト積み上げ型物価形成メカニズムを崩壊させたグローバルな価格競争の力、それがインフレの時代を終わらせたのだ。世界を変えたのは政策ではなく市場の力なのである。

 そこに気付けば、デフレ懸念におびえながらも世界の多くの中央銀行がこの政策手法の導入に慎重姿勢を見せている理由が理解できるだろう。どんな政策でも導入の時機と環境が問題なのである。国内問題としてのインフレとの戦いが中央銀行の主要な役割だった時代ならともかく、グローバルな価格競争という大潮流の下にある現在の世界では、中央銀行がインフレ目標を公約した程度で潮目をデフレからインフレへと逆転できるはずがないからだ。そうした流れの中で中央銀行が言うことを信じてもらうためには、もっと工夫が要るのである。そこで注目されているのが「時間軸政策」と呼ばれる方法論である。

【時間軸政策の限界】

 時間軸政策とは、現時点で手持ちの金融政策手段の効果に限界があるとき、将来における政策展開を市場に約束してしまうことにより、状況の打開を図る政策の総称である。

 たとえば現在の金利がゼロ限界に到達してしまったとき、来年あるいはもっと先の将来時点における金利についても必ずゼロにし続けることを中央銀行が公約したらどうだろう。そうなれば、ゼロ金利でも状況が悪すぎるとして投資を手控えている企業や家計だって、長期にわたる低金利が約束されていることを前提に投資を再開するかもしれない。すなわち政策効果の「前借り」である。

 時間軸政策は、深刻なデフレに悩む2000年代の日本が導入して一定の効果をあげたと評価されているが、ここに来て米国が同様の政策手法を採用しつつある。2011年8月9日に開催された米国連邦準備制度の公開市場委員会(FOMC)は、「少なくとも2013年半ばまでは現在の超低金利政策を維持する」と宣言しているが、これもまた一種の時間軸政策だからである。こうした「前借り」的政策に頼らざるを得ないほど追いつめられているのが現在の世界の政策当局の姿なのだ。

 だが、この政策手法にも多くを期待すべきではない。時間軸政策が機能するためには、政策効果の「前借り」を許すほどの大きな豊かさを、私たちが未来に対して確信できていなければならない。だが本当にそれができるか、そこが問題だからである。

【大きな歴史文脈で考える】

図2:超長期の一人当たりGDP成長率(アンガス・マディソンらの研究成果から)

 図2は世界経済における成長率を約2000年の超長期タイム・スパンにおいてグラフ化したものである。ここでは、一人当たりGDPつまり人々の豊かさの増加という意味での経済の成長というものは、今から200年ほど前から始まった人類経済史の1ページに過ぎないということが示されている。

 これは、少子化という問題や原発の将来を含むエネルギー問題を考えるときに見落としてはならないことだが、19世紀の金本位制から発展してきた現代の通貨の問題を考えるときに忘れてはならないことでもある。

 現代の通貨制度の歴史とは、要するに経済成長の時代と同時代の歴史なのである。そこに気がつけば、私たちが覚悟しておくべきことは、これからの世界では過去と同じように通貨制度が機能するかどうかは試されていないし、インフレ・ターゲットや時間軸政策のような小手先とも言える政策手法では対処できない可能性にも気がつくはずだろう。現在の世界が陥りつつある状況は、好況とか不況という言葉で表現される循環的な危機ではなく、経済成長を条件として生まれた現代の貨幣制度が陥りつつある本質的な機能不全の予兆であるかもしれないのだ。

 もちろん、だからといって、いたずらな悲観論に閉じこもるべきではない。現在の紙幣を中心にした貨幣システムに電子的な工夫を持ち込むことで問題を解決できるかもしれないし(この点について多くを語る余裕がない、関心のある読者は後掲「貨幣進化論」などを参照して欲しい)、そもそも現在の世界が大きな制約の下にあることを私たちが認めて行動するようになるだけでも、デフレ懸念がさらなるデフレを呼ぶというリスク、いわゆるデフレ・スパイラルに陥るリスクを小さくできるだろう。いま重要なのは、大きな歴史文脈の中で問題の本質を冷静に考えることなのである。

岩村 充(いわむら・みつる)/早稲田大学商学学術院教授

1950年 東京都生まれ、
1974年 東京大学経済学部卒業、
1974年 日本銀行に入る、ニューヨーク駐在員、金融研究所研究第2課長、企画局兼信用機構局参事などを経て、
1998年 早稲田大学大学院アジア太平洋研究科教授、
2007年 早稲田大学大学院商学学術院教授(現職)。早稲田大学博士。

専攻は経済学(金融論)。主な著書として、『貨幣進化論』(新潮選書・2010年)、『貨幣の経済学』(集英社・2008年)、『企業金融講義』(東洋経済新報社・2005年)、『新しい物価理論』(共著・岩波書店・2004年)、『電子株主総会の研究』(弘文堂・2003年)、『企業金融の理論と法』(共著・東洋経済新報社・2001年)、『サイバーエコノミー』(東洋経済新報社・2000年)、『電子マネー入門』(日本経済新聞社・1996年)、『銀行の経営革新』(東洋経済新報社・1995年)、『入門企業金融論』(日本経済新聞社・1994年)など