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黒田 祥子(くろだ・さちこ) 早稲田大学教育・総合科学学術院准教授 略歴はこちらから

アベノミクスで賃金は上がるのか?
超金融緩和と労働市場の日本的特性

黒田 祥子/早稲田大学教育・総合科学学術院准教授

 現在、日本ではアベノミクスの第一の矢である超金融緩和政策が実施されている。この政策により、国民の景気回復への期待が高まっている一方、仮に首尾よくデフレから脱却し、目標インフレ率の2%が実現したとしても、賃金が上がらなければ国民の生活は苦しいだけであるという懸念の声も聞かれる。こうした事態に対処するため、大企業の首脳に従業員報酬を上げるよう首相から異例の要請がなされるなど、今後の賃金の動向には国内で強い関心が寄せられている。本稿では、賃金決定と日本の労働市場の特性との関係について考えてみたい。

 図1には、1990年以降のわが国の賃金が低インフレ・デフレ下でどのように推移してきたかをみるために、正社員に相当する一般労働者の時間当たり名目賃金変化率と消費者物価指数変化率(図1)を示した。同図をみると、賃金変化率は1990年代半ば頃まではプラスで推移していたものの、1998年以降は0%を下回るようになっていたことがみてとれる。特に下落幅が大きかったのはリーマンショック後である。これらの観察から、1990年代末以降の日本の労働市場では負のショックが生じた際に賃金を額面(名目値)で引き下げて対処してきたことが分かる。度重なる下方への伸縮的な調整により、2011年時点での時間当たり実質賃金は1995年時点とほぼ同水準にまで低下した。

図1:時間当たりの名目賃金変化率と消費者物価指数変化率の推移
出所)『賃金構造基本調査』(厚生労働省)、『消費者物価指数』
備考)賃金は、一般労働者の名目賃金(賞与や時間外手当を含む年間収入)を労働時間で除した値。

 このような賃下げは他の先進諸国にも共通して観察されるかというと、(少なくとも今のところは)日本でのみ観察される特徴的な現象といえる。例えば、欧州中央銀行がユーロ圏の企業向けに行った調査では、賃下げを実施した企業はリーマンショック後も2%程度に過ぎなかったことが報告されている。

 では他国では下方硬直的な賃金が、なぜ日本では伸縮的なのか。その背景には、各国労働市場の特性の違いがある。第一の違いは、賃金決定の枠組みである。産業や職種横断的に賃上げ交渉が行われる市場では、その決定に反して個別企業が賃下げを行うことは労働者が公正ではないと考えるリスクがある。そこで企業は士気の低下を回避するために一部の労働者を解雇する一方で、残りの労働者の賃下げはしないという選択をする。これに対し、各企業が労使間で個別に賃金交渉を行うのが一般的な日本では、企業の業績や先行きの見通しなど、個別事情を賃金に反映しやすい。第二は、年間収入に占める賞与のウエイトが大きいことである。景気変動に応じて賞与を弾力的に増減させることにより、年間収入を伸縮的に調整することができるからである。こうした日本の賃金決定の枠組みは、新卒で採用し高い教育訓練費を投じて育成した労働者を短期的な負のショックから守る有効な手段として、長らく日本の労働市場で機能してきた。その結果、日本の失業率は他国に比べ、比較的低位安定的に推移してきたとも言える。

 しかし、賃金調整による雇用保護を長らく続けてきたことにより、日本の労働市場には流動性が乏しいという弊害も生じている。労働移動が不活発な労働市場では、ひとたび正社員の職を手放してしまうと再び正規の職に就きにくいという不安から、雇用を守ることと引き換えに賃下げやサービス残業を受け入れる選択肢を労働者が取りやすい。さらに、長びく不況下ではこうした賃金の下方伸縮性がデフレの脱却を難しくするという別の問題を生じさせていることも指摘されている。個別企業の賃下げは、雇用を保護すると同時に、需要喚起のための財・サービス価格の引き下げを可能とするが、各企業が同じ戦略をとることによりマクロの物価水準がさらに下がるため、個別企業の競争力は上がらず、さらに賃金を下げる必要が生じる、という負のサイクルから抜け出せない事態を招いているという考えである。

 こうした負のサイクルから脱却するためには、労働市場の体質改善が不可欠である。労働者に賃下げ以外に多様な選択肢を用意するとともに、国際的に比較優位のある産業への労働移動を促進するためには、「仕事を失うリスクは相対的に低いが転勤や長時間労働を余儀なくされる正規」と「失職のリスクは高いが労働時間や勤務地は比較的自由に選ぶことができる非正規」という二極的な働き方しか存在しない市場から、「労働者が多様な賃金と労働条件の組み合わせの中から自身の選好やライフステージに合うものを自由に選択できる」市場へと、労働市場を変えていく必要がある。同一個人であっても年齢やライフステージに応じて希望する労働条件は変化する。賃金と労働条件に関する多様な組み合わせが存在し、それらの選択肢の間を労働者が円滑に移動できる市場へと進化を遂げていくことができれば、労使のマッチングの効率性も増すことから労働生産性の向上や実質賃金の上昇も期待できるほか、これまで就業を諦めていた非労働力の活用にもつながる。今般、政府が成長戦略として検討している地域・業務限定の準正社員制度の導入や、育児休業制度の3年拡充といった案は、多様な働き方を許容する社会に向けての一歩と言えよう。ただし、こうした案には企業側のコスト負担や、そうした働き方を希望する労働者が少ないのではないかといった指摘もなされている。

 この点に関連して、最後に筆者らが企業719社、従業員4,439人を対象に行った研究結果の一部を紹介したい。本研究では、労使に対し、「(現在の法を上回る)育児・介護休業制度や、短時間勤務制度を導入するとしたら、導入コストをどの程度賃金に織り込めば実現可能だと思うか」という仮想質問を行った。図2は、それらの結果を整理したものである。この結果によれば、従業員側は「導入の代わりの賃下げは受け入れられない(0%の賃金プレミアム)」あるいは「10~20%程度の賃下げなら受け入れる」とする回答が多かったのに対して、企業側は「導入は一切考えられない(-100%の賃金プレミアム)」という回答が圧倒的多数であり、労使の認識に大きなギャップがあることが指摘できる。日本で多様な働き方が普及しない背景には、二極的な働き方が常態化しているために、その他の働き方を許容すると直接的・間接的に多大なコストがかかると考えている企業が多いことが示唆される。ただし、施策を導入してもよいとする従業員と企業のみにサンプルを限定した場合には、育児・介護休業制度導入のための賃金プレミアムは従業員が-33.8%、企業側-8.3%、短時間勤務制度のプレミアムは従業員が-27.8%、企業側-11.0%であった。つまり、制度導入の余地ありと考えている企業は施策導入には平均で1割程度の賃下げをすれば実現可能と考えているが、労働者は平均で3割程度を引き下げてでも柔軟な働き方を希望しているといえる。これらの結果は、企業が労働者の潜在的なニーズをうまく汲みとることができれば、追加的なコストなしで賃金と労働条件に関する多様な組み合わせを提供でき、従業員の厚生を高める可能性があることを示唆している。これからの日本の労働市場には、雇用保護のための賃下げという一辺倒な考え方から、多様なニーズに対応した賃金と労働条件の新たな組み合わせを作り出していくという考え方へ、発想を転換させていくことが求められている。

出所)黒田祥子・山本勲(2013)
備考)従業員サンプルは、女性に限定したケース。

<参考文献>
黒田祥子・山本勲、「ワークライフバランスに対する賃金プレミアムの検証」、RIETI ディスカッションペーパー、No. 13-J-004、経済産業研究所、2013年

黒田 祥子(くろだ・さちこ)/早稲田大学教育・総合科学学術院准教授

【略歴】

早稲田大学教育・総合科学学術院准教授。慶應義塾大学経済学部卒業。博士(慶應義塾大学)。日本銀行エコノミスト、一橋大学経済研究所助教授、東京大学社会科学研究所准教授を経て、2011年より現職。