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阿古 智子(あこ・ともこ)/早稲田大学国際教養学部准教授 略歴はこちらから

上海万博に見る中国の光と影

阿古 智子/早稲田大学国際教養学部准教授

上海万博開幕

 5月1日、中国が国家の威信をかけて準備してきた上海万博が開幕した。私は大学院時代、1年間上海に滞在し、ホームステイをさせてもらっていたが、その家の母は常々、「万博を見てからでないと死ねない」と話していた。戦争、新中国誕生、文化大革命、改革開放を生き抜いてきた彼女は、万感の思いで上海の変化を見つめているようだ。

 大阪で万博が開かれたのは1970年。私が生まれる1年前だ。大阪で暮らす私の父は、「とにかく立ち止まっている暇がなかった」と当時を振り返る。高度成長期のまっただ中にあった日本と同じような雰囲気が、今の上海にもあるのだろう。しかし、国内に大きな経済格差を抱える人口大国・中国には、日本とは異なる状況がある。

特殊な戸籍制度

 上海は中国のなかでも最も豊かな地域であり、特にこの20年あまりの成長は目覚しい。さらなる経済発展の契機となる万博が、上海で開かれるのも納得できる。しかし、中国の内陸部は貧しく、沿海部との貧富の差はますます拡大している。中国改革基金会国民経済研究所・王小魯副所長が2007年に実施したサンプル調査によると、全国上位10%の高所得層と下位10%の低所得層の収入格差は実に55倍にも上ったという。低所得者の多くは農村に集中しており、生活の向上を求めて都市部に出稼ぎに来る。しかし、中国には農業戸籍と非農業戸籍を区別し、子は親と同じ地域の戸籍を受け継ぐという戸籍制度があるため、例えば四川省の農村出身者が上海の工場で働くために上海に移り住んだとしても、戸籍は四川省に残されたままである。

 住民票を移しさえすれば簡単に市民権を得ることができる日本の感覚では、中国の特殊な戸籍制度を理解するのは難しいだろう。戸籍制度は人民公社体制の下で集団農業を行っていた時代から現在に至るまで継続しているのだが、中国政府がこのような不平等な制度を廃止できないのは、地域間の経済格差が大きく、13億以上という膨大な人口を抱えるため食糧自給が国家運営上の要となっているからである。四川省の貧しい農民たちが日本のように簡単に住民票を上海に移すことができるなら、ほとんど100%に近い人が生活保護の受給対象となる。所得水準から医療保険や年金、教育環境に至るまで、あまりにも条件が大きく異なるため、国の中に境を設けて市民権を設定せざるを得ないのである。

専門人材誘致のための戸籍改革

 上海市は現在、移住者に対して、上海市民とほぼ同等の福利を受けることができる「居住証」と居住を許可するだけの「臨時居住証」を発行している。居住証は主に大学以上の学歴か特殊な能力を持つ人材が対象である。2003年まで大学の新卒者ならほとんどが居住証を取得できたが、2004年に卒業校のランク、成績、外国語やパソコンの資格、就職企業の信用度や待遇などによって総合得点を決める制度が導入されてからは、門戸が狭められた。

 さらに、正式な上海市の戸籍を得るためには、居住証を取得してから7年以上経ち、7年以上、上海市の社会保険に加入して所得税を納めていること、中級以上の専門技術者や国家2級以上の技師であること、犯罪歴がないことといった条件を満たさなければならない。現在、上海市の常住人口約1900万人のうち、約600万人は同市の戸籍を持っていないという状況である。

都市内部にも農村

 先日ある講演会で知り合った上海市郊外で工場を経営する日本企業の人から、次のような相談を受けた。
「工場付近には、十数年前に工業団地ができた時に土地を収用された農民戸籍の約80世帯が住んでいるのですが、住宅街の排水溝から出る異臭は我が社の工場が原因だと主張する20人ほどの住民が、工場の出入口に集まって3日間バリケードを組み、営業妨害を行いました。住民たちは環境の良い場所への移転とそのための補償金、上海市の戸籍を求めました。結局、警察が出動して騒ぎは収まり、異臭の原因も他の工場であることが証明されたのですが、今後も同様の問題が起こるのではないかと不安に感じています」

 この話を読んで、「上海市に住んでいるのになぜ戸籍を求めているのだろう」と読者は疑問に感じたのではないだろうか。古くから上海に住む人のなかにも非農業戸籍を持つ者と農業戸籍を持つ者がおり、郊外に住む人の多くは農業戸籍を持つ「農民」である。都市化が進むにつれ、郊外にも工業団地ができ、マンションが立ち並ぶようになった。しかし、土地を収用された農民たちがすぐに戸籍をもらえるかというと、そうではない。上海市の中でも「農村」と規定される地域と「都市」と規定される地域があり、それぞれが提供する公共サービスの内容には大きな差が存在する。

中国につきまとう光と影

 このように中国は国内に大きな地域間格差を抱え込んでいるが、それが安価な労働力を提供し、国民のハングリー精神を高揚させるのに有利であり、ひいては経済を活性化しているという見方もある。しかし、急速に発展する中国には、常に光と影がつきまとっていることを忘れてはならないだろう。先述の日本企業が経験したように、不満の矛先が先鋭化すれば、影の部分がたちまち光を覆ってしまうのである。

阿古 智子(あこ・ともこ)/早稲田大学国際教養学部准教授

【略歴】

1971年生まれ。大阪外国語大学中国語学科卒業、名古屋大学大学院国際開発研究科修士課程修了、香港大学教育学研究科Ph.D.取得。2001-2003年、在中国日本大使館に専門調査員として勤務。2004-2006年、姫路獨協大学外国語学部准教授、2006-2008年、学習院女子大学国際文化交流学部准教授、2009年から現職。主な著書・論文に、「腐敗と格差の根源は何か」『RATIO5』(2008年、講談社)、『貧者を喰らう国』(2009年、新潮社)、「農村社会の凝集力」菱田雅晴編著『中国基層からのガバナンス』(2010年、法政大学出版局)など。