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城倉 正祥(じょうくら ・まさよし) 早稲田大学文学学術院(考古学)専任講師、早稲田大学シルクロード調査研究所所長 略歴はこちらから

古代東アジアの国際交流-都城の比較考古学の視座から-

城倉 正祥/早稲田大学文学学術院(考古学)専任講師、早稲田大学シルクロード調査研究所所長

1.なぜ今、古代における国際交流の研究が重要なのか?

 21世紀のグローバル社会の中で、東アジア諸国の政治的・経済的結びつきは益々強く、そして濃密になりつつある。一方で、中国の台頭を背景にして、東アジア諸国の国際関係も大きく変容し、領土や歴史認識の問題をめぐって日中関係・日韓関係の歪みが顕在化している。このような複雑な国際問題に直面する今だからこそ、冷静に国際交流の歴史を振り返り、相互理解を深める必要があるのではないだろうか。

写真1:漢魏洛陽城の調査風景

 個人的な体験を例に挙げよう。私は大学院で博士号を取得するまで、日本考古学(古墳時代の埴輪)を専門としていた。しかし、卒業後に就職した研究所で国際共同調査が始まると、日本側担当者として中国の漢魏洛陽城の発掘に従事することになった。言葉もわからないままに一人中国の発掘現場に放り込まれ、中国の研究者や多くの農民工と日々、同じ釜の飯を食べ、同じ苦労を共にした。習慣や考え方、調査の方法まで日本と中国は異なっていたが、学問に対する姿勢や熱意、発掘によって歴史を客観的・科学的に復原する目的に国の違いはなかった。お互いの立場を尊重し、違いを認め、それを理解する努力をすれば、発掘という難しい共同作業さえ成功できることを仲間たちが教えてくれた。

 最初に中国調査に従事してから7年、現在の私は日中古代都城制の比較考古学を専門としている。今も昔も国際交流とは自己の立場を相対化し、多様な価値観を認め、相互理解を促進する作業に他ならない。古代東アジアの国際交流の歴史を学ぶことには、現代の複雑な国際関係を解決するヒントが隠されていると思う。

2.中国における都城制の発展

 では、そろそろ本題に入ろう。都城とは、「城壁で囲まれた都市空間」を示す漢語である。皇帝権力・官僚機構・都市住民、それらが宮城・皇城・外郭城という重圏的な城壁によって構造化される空間が都城である。政治・経済・社会の中枢であり、様々な儀礼・祭祀・宗教施設を内包する思想空間でもある。現在の故宮を中心とする北京城が、明清期に造営された現存する最も新しい都城だが、その歴史は非常に古い。中国では、新石器時代後半段階には既に「城塞」が出現し、最近では夏王朝の首都とも目される河南省偃師市の二里頭遺跡では、隔絶した宮殿やそれをめぐる重圏的城壁が確認されている。商代には河南省の偃師(えんし)商城・鄭州(ていしゅう)商城、河北省の洹北(えんほく)商城などその規模は飛躍的に巨大化し、周代に引き継がれる。そして、春秋・戦国期には各国の都として、戦乱の時代を象徴するように強固な城壁に囲まれた独自性の強い都城が生まれた。

写真2:復原された隋唐洛陽城の定鼎門

 秦の始皇帝が初めて中国を統一すると、それに続く前漢の長安城は中華帝国の首都として後の時代に大きな影響を与えた。城内には複数の宮城が立ち並び、西南隅の未央宮(みおうきゅう)には国家的な儀礼の舞台となる「前殿(ぜんでん)」が造営され、その基本構造は後漢洛陽城に引き継がれた。続く魏晋南北朝期に中国都城は大きな変革期を迎える。魏の曹操が造営した鄴北城(ぎょうほくじょう)で中軸線の整備や区画の機能分化が進み、北魏洛陽城では「太極殿(たいきょくでん)」を中心とした宮城、その南の銅駝街(どうだがい)に密集する官庁街(皇城)、そして内城の外に広がる碁盤目状の都市空間(外郭城)が整備された。特に、日本都城で条坊と呼ばれる碁盤目状の街区が、鮮卑族拓跋氏(せんぴぞくたくばつし)の征服王朝である北魏によって創設された点が注目される。中国都城の発展史は、中原の伝統的な思想と北方遊牧民族の多様な要素の絶え間ない交流・融合の歴史でもあった。

 魏晋南北朝期に確立した宮城・皇城・外郭城の三重構造は、隋大興城(だいこうじょう)・唐長安城で完成をみる。権力の中枢である壮大な宮城、巨大な官僚機構を支える皇城、その南の規則的に配された碁盤目状の都市空間(外郭城)、唐長安城は100万人の人口を誇るまさに世界最大の計画都市だった。さらに、唐は広大な領域国家であると同時に、西域・ヨーロッパへ続くシルクロード、あるいは北方の草原、南方の海を介した交易路でユーラシアを広く結びつける国際色豊かな王朝であり、その首都として長安城には華やかな都市文化が花開いた。この長安城のスタイルは、唐を中心とした国際関係を背景として、東アジア各国に伝播・展開していくことになる。

3.隋唐期の国際情勢と日本における都城制導入の歴史的意義

 古代の東アジア世界においては、強大な中華帝国を中心とする国際秩序が存在していた。各国の王が中華の皇帝に朝貢し、爵位を授けられることで自国の統治や隣国に対する優位の後ろ盾を得るシステムである。中国史学者として著名な西嶋定生が「冊封(さくほう)体制」と呼んだ国際秩序である。例えば、後漢光武帝から57年に賜ったとされる「漢委奴国王」の金印、卑弥呼が238年に魏から賜った「親魏倭王」の称号、あるいは5世紀に南朝に朝貢した「倭の五王」など、倭国(わこく)(当時の日本)が盛んに中華の皇帝に使いを送った点も知られる。特に、中国北東部から朝鮮半島に高句麗・新羅・百済が並び立つ三国時代には、倭国も交えて熾烈な外交上の鍔迫り合いが続いていた。

 660年に百済が滅ぶと、その復興のために倭国は水軍を派遣し、663年に唐・新羅連合軍に大敗を喫した。所謂、白村江(はくすきのえ)の戦いである。敗戦後、倭国は博多湾を望む福岡平野に水城を築き、瀬戸内沿いに朝鮮式山城を置くなど防衛策を推進していくことになる。一方、国内では672年に壬申の乱に勝利した天武天皇が、唐の律令制・都城制の導入を積極的に進め、694年に初めての中国式都城である藤原京、701年に大宝律令が完成した。これらの国家的事業が、遣唐使の派遣されない天武・持統朝の「空白の30年」間に進められていた点が注目される。

 702年、粟田真人(あわたのまひと)を執節使とする大宝の遣唐使が満を持して派遣された。粟田真人は長安城で則天武后に拝謁するが、30年ぶりの遣唐使たちが目にしたのは、藤原京とは全く異なる形をした長安城、洛陽城の殷賑ぶりだった。最近の研究では、藤原京は天武・持統朝の遣唐使が派遣されない時期に、中国の書物「周礼(しゅらい)」考工記に記載される理想の王城をモデルに造営されたという説が注目を集めている。確かに藤原京は「周礼」の理想の王城と酷似する形で、実際の長安城とは大きく異なっている。この大宝の遣唐使たちが見聞きした、あるいは持ち帰った「情報」によって、藤原京はわずか16年で廃都となり、唐長安城を忠実に模倣した平城京が造営されたと考えられている。

写真3:復原された平城京の朱雀門
(奈良文化財研究所提供)

写真4:復原された平城京の大極殿
(奈良文化財研究所提供)

4.今後の検討課題-比較の視座を深めるために-

 以上が最新の研究で考えられている中国都城の発展過程と日本における都城制導入の歴史的背景である。一方、近年の中国における発掘調査の進展は目覚ましいものがあり、発掘された遺構の構造に関する研究が進んでいる。それら考古学の発掘成果を踏まえて、日中古代都城の比較を進めていくと、実は日本の都城が長安城を真似るだけではなく、中国都城の構造や思想そのものを「解体・再編成」し、日本の伝統的な要素と融合させながら受容している実態が分かってきた。この視点から、東アジアの都城を丁寧に比較していけば、文献史料には書かれていない当時の複雑な国際関係とその交流の実態を解き明かしていくことができるのではないかと考えている。文献史料には残らない「事実」を積み重ねて、発掘資料から新しい歴史像を描けるのも考古学の醍醐味である。

 今や歴史学において「一国史」は成り立ちうるものではない。縺れた糸を一つ一つ解きほどくように、複雑で多層的な古代の国際関係を明らかにしていく歴史学の作業は、現在の複雑な国際関係を考える上でも重要だと思う。東アジアの国際関係が緊張する今だからこそ、その関係性の歴史を冷静に振り返ってみる必要があるのではないだろうか。

城倉 正祥(じょうくら・まさよし)/早稲田大学文学学術院(考古学)専任講師、早稲田大学シルクロード調査研究所所長

【略歴】

1978年長野県生まれ。早稲田大学大学院文学研究科史学(考古学)博士後期課程修了。博士(文学)。
2007年より国立文化財機構奈良文化財研究所研究員。日本平城京、中国漢魏洛陽城の発掘調査に従事。
2011年より現職。主な著作に、『埴輪生産と地域社会』(学生社)、「漢魏洛陽城遺構研究序説」『文化財学の新地平』(吉川弘文館)、「日中古代都城における正門の規模と構造」『技術と交流の考古学』(同成社)などがある。