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ファーラー グラシア(LIU-FARRER Gracia) 早稲田大学国際学術院教授 略歴はこちらから

「多文化共生」の何が問題なのか?

ファーラー グラシア/早稲田大学国際学術院教授

 日本には200万人以上の在留外国人が住んでおり、その半数以上は永住者だ。多種多様な国籍や文化的背景をもつひとびとがやってくることで、日本人が慣れ親しんできた生活パターンはかき乱され、また「日本文化」や「日本人のアイデンティティ」といったものの構成じたいが揺るがされている。いっぽう、移民を日本社会へと包摂するために、日本政府は「多文化共生」という概念を喧伝し、また地方自治体の政治的指針ともさせている。ここで私が問いたいのは、このような多文化主義は、じっさいに機能するのだろうかという問題である。

 異文化を尊重し、さまざまな文化的背景をもつひとびとがともに平和に暮らしてゆける社会の実現を要請する多文化主義は、多くの国民国家に受容された政治思想だ。けれども、ヨーロッパにおいても観察されるように、文化的衝突は多文化主義政策によっても根絶できてはいない。とりわけこの状況は、かつて強烈な民族文化的アイデンティティを抱いていた社会において深刻だ。その問題に気づいたドイツのメルケル首相は、2010年、多文化社会を創出しようという政策は「まったくの失敗だった」と宣言した。多文化主義の何が問題なのだろうか?

 多文化主義は善意に満ちた理念なのだけれども、気をつけなければならない点もある。実際において多文化主義は、文化的差異を本質化し、ひとびとを文化的集団に分割する傾向性を持っている。つまり、さまざまな民族的・国家的背景をもつひとびとを、特定の民族・国家的な文化の体現者として見做してしまうのである。それゆえにタイから来たひとびとは、「いわゆる」タイ文化の代表者とみなされて、多文化フェスティバルにはグリーンカレーを持ってくるよう、いつも期待されてしまう。ひとびとを文化的カテゴリーに押しこめる、このような多文化主義にこそ、危険が潜んでいると思う。このような多文化主義は、「わたしたち」と「彼ら」、国民と外国人との境界線を創りだしてしまう。「わたしたち」以外のひとびとは、決して「わたしたち」になれない。ゆえに移民二世が最もラディカルな移民である、という事情も驚くにはあたらない。想像してみよう──どれだけ長い間その社会に馴染み、その土地の言葉をしゃべれたとしても、数十年前に両親がよその土地から来たからというだけで、いつまでも異邦人として扱われている、としたら。このたぐいの多文化主義なるものは、移民の社会的・文化的な現実をひどく誤解している。

 そうではなくて、実際すべての移民は多文化的なのだ。たとえば私が長年にわたって調査させてもらっている中国からの移民の方は、十分な日本語のスキルを有し、日本社会のルールを熟知しており、さらには地方のさまざまな生活習慣にも馴染んでいる。私が参与観察に加わっている中国語学校では、中国人のお母さんたちがNHKの朝の子ども番組についてあれこれ議論し、日本の子ども向けの歌を歌いながらわが子と遊んでいる。お母さんたちがいつも熱心に話しているのは、早稲田アカデミーと四谷大塚のどちらが良いか、という問題である。

 子どもたちは文化的な柔軟性をより多く持っている。日本で育った中国からの移民の子どもたちは、日本語を母国語として話す。また友だちも、中国人より日本人のほうが多い。十代になってはじめて子どもたちは、法律上中国籍を持つことに気づくのだ。ただ、両親の懸命な努力と中国への定期的な里帰りによって、子どもたちは十分な中国語のスキルを維持している。いじめや孤立を避けるため、子どものうちは日本人として暮らすひとびとも、成長するにつれて自らのルーツとしての中国文化に自信を持つようになる。

 けれども、かれらは分類されることを拒む。よくあることだが、「自分のアイデンティティをどう考えていますか」という質問に対して、中国からの移民の子どもで二重文化を生きるかれらは、答えに窮するようだ。「中国人」も「日本人」も、かれらのアイデンティティを表すにはしっくりこない。最終的には、「国際人」「世界人」をアイデンティティとするひとびともいる。

 このようなタイプの多文化的自己は、日本にやってきた外国人にとっては珍しいものではないし、またいわゆる帰国子女、すなわち数年間外国に暮らしていた日本人の多くにも見られる。多文化的なひとびとは、意外に身近な存在かもしれない。事実、グローバル化する世界においては、ひとびとが移動せずとも、文化みずからが移動してゆく、と言ってもよい。メディアに何らかのかたちでつながっているひとびとは誰でも、多文化的な影響のもとにおかれているのだ。

 多文化主義は個々人のなかに埋め込まれている──というこの現実は、現在の多文化主義的共生の理念には反映されていない。いぜんとして日本の多文化主義プログラムは、役所・役場で多言語サービスを提供し、外国人住民向けの無料または安価な語学講習会を開催し、そして外国人住民の文化的ショーケースのようなイベントを組織することに注力している。それらの必要性は理解できるけれども、多文化主義の意味をあまりに矮小化してはいないだろうか?

 多文化主義的な諸個人がともに平和に暮らしてゆける社会を目指す日本にとって重要なことは、「国の文化」とか「ナショナル・アイデンティティ」といった堅苦しい観念をさっぱり捨て去ることだ。日本はすでに、多文化的諸個人によって構成される多文化社会なのだ──とはっきり認識すべき時が来ている。子どもが産まれたときからすぐに、家庭や学校でこのような教育を開始すべきだ。

ファーラー グラシア(LIU-FARRER Gracia)/早稲田大学国際学術院教授

2007年シカゴ大学大学院博士課程修了、博士(社会学)。東北大学 社会階層と不平等研究教育拠点フェロー(2006-2007)、お茶の水女子大学助教(2008-2009)、一橋大学地球社会研究専攻客員教授 (2008-2009)、早稲田大学大学院アジア太平洋研究科准教授(2009-2013)を経て、2014年より現職。

主な著作に、「中国系移民の余暇サブカルチャーにおける性および地位の実践」(広田康生、町村敬志、田嶋淳子、渡戸一郎編『先端都市社会学の地平』ハーベスト社 所収、2006)、“Labor Migration from China to Japan: International Students, Transnational Migrants” London: Routledge (2011) 、ほか。
2014年度早稲田大学リサーチアワード(国際研究発信力)受賞。