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李 成市(リ・ソンシ)/早稲田文学学術院教授 略歴はこちらから

Brexitの衝撃から──東アジア史は希望の宝庫たりえるか

李 成市/早稲田文学学術院教授

Brexitの衝撃

6月23日の国民投票でEU離脱票が残留票を上回り、英国は28カ国に拡大したEUから離脱する初めての加盟国となった。このニュースに接した私は、これまでの自分の研究を全否定されたかのような衝撃を受けた。

 人類の歴史は、各地域の共同体から国民国家に至る過程ではない。それは通過点にすぎず、諸国家は対立や利害を超えて、より大きな政治的、経済的共同体に向かって拡大していく。従来の「歴史」は、19世紀以来の国民国家を到達点と見なすがゆえに、国民国家を過去に投影した歴史像を構築し、それを疑問なく受け取ってきた。しかし近代国家が通過点に過ぎないのならば、これまでの歴史像は新たな現実から書き直されなければならないのではないか。

 EUの着実な拡大の過程をみながら、そのような確信は強まっていった。ちょうど私の研究が様々な形になりつつあったころでもあり、ベルリンの壁崩壊後の欧州の現実の動きは大いに励ましになった。

東アジア史研究との出会い

 70年代初めに大学に入学すると、私は朝鮮古代史の研究を一生の仕事にしたいと思うようになった。というのも、国内外で新たな研究が次々に世に問われた時期でもあったからだ。韓国や北朝鮮の歴史学界では、戦前に日本人研究者によって強調された他律性史観、停滞史観の克服、さらに朝鮮文化の独自性の解明などが課題となっていた。要するに、植民地史観の克服がめざされており、これまで通説とされていた研究が懐疑にさらされていた。

 そのような南北の学界の動向を気にかけながらも、私には1960年代から日本の歴史学界の潮流となっていた「東アジア」という枠組で歴史を捉える方法論に傾倒するようになっていた。植民地主義の克服は必須の課題ではあるが、それが行きすぎると戦前の日本の皇国史観のようにショービニズム(排外主義)に陥るのではないか、一国史の枠組は歴史のダイナミズムを見失うことにならないだろうか。そうした疑問を感じながら、東アジアの視点から古代朝鮮の国家形成、国際関係、文化交流に関する論文を70年代の終わり頃から書き始めた。

東アジア史の中の朝鮮古代史

 98年に学位論文としてまとめた著作は、朝鮮半島の古代を対象とする研究ではあるが、あえて『古代東アジアの民族と国家』というタイトルで刊行した。その前年には、正倉院宝物の伝来ルートを手がかりにした古代の交流史を『東アジアの王権と交易』という書名で上梓していた。その後に発表した単著も『東アジア文化圏の形成』、韓国で刊行した史論集も『創られた古代―近代国民国家の東アジア言説』という書名で、いずれも「東アジア」にこだわった。

 一国史に還元できない歴史は、史料からいくらでも探し出すことが可能なのであるが、一国史というドグマが「みても見えず」という不自由をもたらす。たとえば、30万点以上の出土がある古代日本木簡は「中国、朝鮮と無縁であって、日本列島に独自に生まれ展開した」と96年当時、ある学会で長老学者が語気強く主張していた。しなしながら、この10年の間に韓国木簡の出土と、それに基づく日韓比較研究で、そのような独りよがりは、あっさりと否定されてしまった。韓国木簡研究は私にとって東アジアにおける文明の伝播と受容のダイナミズムを裏づける貴重な体験でもあった。

 このような認識に至る過程は、単に新たな資料の発見にあったのではない。隣国の研究者との人的交流が深まる中で、お互いの知見を交換しながら、資料と方法を共有していくという文字どおり共同研究が深化した成果でもあった。

現実と東アジア史研究

イングランド西部の都市バースで配布されていた、EU離脱国民投票の再考を促す住民グループのちらし

 90年末以降、東アジア諸国で生起した教科書問題や歴史認識問題では、国家が主導する共同研究が開催されたが、それらは外交交渉のようなものであって、ナショナリズムを強化することになっても学問的には不毛な結果しか生まなかった。その一方で、民間の研究者の交流が深化し、日中韓の近現代史の副教材も作成され刊行された。EUがヨーロッパの歴史を教科書として刊行したように、東アジアでも同様の歴史教育の必要性が説かれるようになっていった。

 英国のEU離脱が発表された直後、ある会合で冒頭に記したような痛恨の思いを述べて2週後、英国の歴史家ティモシー・ガートン・アッシュ氏がEU離脱の衝撃を「わが政治人生における最大の敗北」と表現したことを朝日新聞(7月14日東京版)のインタビュー記事で知った。「問題は地理的、歴史的、文化的に帰属するかではなくて、特定の政治目標を共有するかどうか、ということなのです。(欧州と)アジアとの決定的な違いはそこにある」とアッシュ氏は言う。しかし決して東アジアに希望がないわけではない。アッシュ氏は「最も重要なのはグローバル化で敗者となった人達に希望のメッセージを与えることです」と述べている。私には「東アジア史」が希望の宝庫になりうるか否かが切実に問われていると受けとめられた。

李 成市(リ・ソンシ)/早稲田文学学術院教授

【略歴】
1952年名古屋市生まれ。横浜国立大学教育学部助教授、早稲田大学文学部助教授を経て、1997年から文学学術院教授。古代東アジア地域史。博士(文学)。早稲田大学理事も務める。
主な著作として、『東アジアの王権と交易』『古代東アジアの民族と国家』『東アジア文化圏の形成』『創られた古代』『植民地近代の視座』『創られた古代』『留学生の早稲田ー近代日本の知の接触領域』ほか。