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篠田 徹(しのだ・とおる) 早稲田大学社会科学総合学術院教授 略歴はこちらから

新しい「アジア太平洋学」構築をめざして
ハーバード・エンチン研究所との合同プログラムを開催

篠田 徹/早稲田大学社会科学総合学術院教授
2018.7.30

 早稲田大学グローバルアジア研究拠点(拠点リーダー:梅森直之・政治経済学術院教授)は、六月二十五日から七月五日まで、早稲田大学において、ハーバード・エンチン研究所(Harvard-Yenching Institute、所長代行:アンドリュー・ゴードン・ハーバード大学歴史学科教授)と「新アジア太平洋学(New Approaches in Asia-Pacific Studies)」をテーマにトレーニングプログラムを実施した。

 このトレーニングプログラムは、ハーバード・エンチン研究所がこれまで中国を中心にアジア各地の大学で行っているもので、日本での開催は初となる。

 今回の早稲田での開催に当たっては、中国の清華大学教授の李廷江先生と、本学及び東京大学名誉教授・東洋文庫常務理事の平野健一郎先生にご尽力を頂いた。ここに改めて感謝の意を表したい。

新しい「アジア太平洋学」の射程

 このトレーニングプログラムは、特定のテーマに基づいて、世界中から博士課程在籍ないし修了直後の者を中心とした若手研究者を二十名募集し、同様に世界中から招聘した講師十名と十日間、レクチャー、ディスカッション、グループワーク、プレゼンテーションという盛り沢山のプログラムを受ける。そしてこの二十名には、翌年度のエンチン研究所での若手訪問研究員の一年プログラム(滞在諸経費や生活費を賄う奨学金付き)への応募資格が与えられ、応募者の中から数名が選抜される。

 今回のテーマは前述したように「新アジア太平洋学」で、政治経済、社会文化の両面で世界から注目される空間になりつつあるアジア太平洋地域について、この間当該地域である欧米を中心として発展した「大西洋学(Atlantic Studies)」を横目で見ながら、学問的にもその歴史や今日的課題について「アジア太平洋学」の新展開がどのように可能なのかを議論した。

 今「新展開」と述べたように、アジア太平洋地域においては、近年過去の学問領域や研究手法を革新する多くの試みが多様な分野で行われてきた。今回はそれらの成果を取り込みながら、アジア太平洋地域自身が発信地となりながら、研究視点における大西洋学などとの融合などそのグローバルな展開も検討された。

 実は当初こうした野心的なテーマについて、若手研究者がどう反応するか。正直不安がなかった訳ではない。だが蓋を開けてみれば予想をはるかに上回り、通常五十から七十位のところを応募者の総数は百に達した。しかも応募者の出身地域は、東、東南、南、中央のアジア全域、南北アメリカ、ヨーロッパ、アフリカまでそれこそ世界中に及んだ。

 さらにそれら応募者の専門分野も国際関係、紛争解決学、人類学、社会学、言語学、都市工学など様々で、その中で多かった歴史学も、その中身は政治史、経済史、社会史、文化史、思想史、美術史と多岐にわたった。しかも時代も古代から現代まで、地域も応募者の地域同様、アジアを中心としながら、世界各地との関係性が強く意識されていた。

 その中から選抜された訓練生の内訳は、平均年齢は三十歳前後、多くがまもなく博士論文を書き上げる段階にあり、女性が全体の四分の三、国外の大学に在籍する者を含めて中国系が三分の一強、そのほかは日本を含めてアジア各地の大学から集まった。

 また応募にあたって各自が提出した研究計画も、それぞれ非常にユニークであり、新アジア太平洋学という言葉でイメージされた世界の広くて深い可能性が大いに感じられた。

第一線の講師陣を招聘して

 これら訓練生と議論した講師陣は、共催校からそれぞれ五名ずつ招聘された。

 エンチン側は大西洋史、太平洋史を含む大洋史研究を牽引するハーバード大学歴史学科のデービッド・アーミテージ教授、ユニークな手法で中国史をグローバルな観点から叙述するブリティッシュ・コロンビア大学歴史学科のティモシー・ブルック教授、日系アメリカ人をアジア太平洋史の接合主体ととらえるペンシルバニア大学歴史学科のエイイチロウ・アズマ教授、新たな視点で満州国研究をリードするウィスコンシン大学歴史学科のルイス・ヤング教授。領土問題の多角的意味を検討するコネチカット大学歴史学科のアレックス・ダデン教授を招いた。

 早稲田側は中国の朝貢貿易の再検討でアジア史を革新した中国中山大学アジア太平洋学部の濱下武志教授、アジア域内貿易の研究でアジアの史的像を豊富化した総合地球環境学研究所の杉原薫教授、カンボジアのアンコールワットの遺跡発掘などで歴史保存の意義を探る上智大学総合グローバル学部の丸井雅子教授、アフリカン・アメリカンとアジアの関係史を開拓するミネソタ大学アフリカン・アメリカン&アフリカ学科のユウイチロウ・オオニシ教授、社会史の手法を用いて冷戦研究に新境地を開いたシンガポール国立大学歴史学科のハジメ・マスダ准教授を招いた。

 この講師陣の革新的多様性と先の訓練生の想像的多様性との交わりは、シュウミン国際教養学部准教授をはじめとする早大教員やアンドリュー・ゴードン所長代行、梅森センター長、ルオホン・リー エンチン研究所副所長、エンチン研究所顧問リンダ・ゴードン元上智大学副学長らの触発的な討論参加も得て、予想を超える多産的な議論を生み、訓練生のみならず講師陣からも、議論の継続を望む声が挙がった。

 このほかにも付属レストランでの歓送会を含めて世界有数のアジア学の拠点である東洋文庫訪問が、プログラムを一つのコミュニティにする点で大いに意義があったことも、東洋文庫への感謝とともに記しておきたい。

「一度目は悲劇として、二度目は希望として」

 この実り豊かなトレーニングプログラムは多くのことをわれわれに教えた。中でも以下は最も重要である。

 日本は、アジア太平洋地域において、諸文明の最も混合的(ハイブリッド)な影響を受けた場所であり、また当該地域への歴史的関与が最も多様な主体であったため、歴史の再評価や現代社会の課題へのアプローチにおいて、相対的に地域独特の磁場から自由である。

 そのため既存研究の盲点や分野接合による新事実の発見、さらに理論の地域間移植による当該理論の耐性検証など、歴史や社会科学のユニークな実験的研究空間を提供できることが立証された。

 さらに、かつてアジア太平洋において共同体形成を企図してネガティブな結果に終わった日本の経験は、トレーニングプログラムで形成されたアジア太平洋をめぐるグローバルな知的議論の共同体形成を、単に研究の集合的な主体形成の意味においてだけでなく、梅森センター長が歓送会で「歴史は二度繰り返す」というマルクスの有名な格言を、「一度目は悲劇として、二度目は希望として」と言い直したほど、このプログラムによる未来志向な歴史の集合的な主体形成機能という点で、重要な参照点となりうることを示唆した。

 そしてこれらが早稲田大学で示されたことに、学問の独立、学問の活用、模範国民の成就というその教旨があらためて意義深く感じられた十日間であった。

篠田 徹(しのだ・とおる)/早稲田大学社会科学総合学術院教授

【略歴】
一九五九年生まれ。早稲田大学第一文学部中国文学科卒業。早稲田大学政治学研究科博士後期課程中退。
北九州大学法学部専任講師、早稲田大学社会科学部専任講師、助教授を経て一九九七年から現職。留学センター所長。
編著書に『世紀末の労働運動』岩波書店、『労働と福祉国家の可能性』(共編著)ミネルヴァ書房、他多数。