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菅野 純

菅野 純(かんの・じゅん) 早稲田大学人間科学学術院教授 略歴はこちらから

学校教育の現在

菅野 純/早稲田大学人間科学学術院教授

「教え子」と教師

 102歳まで生きた私の祖母が、95歳を過ぎた頃の話である。冬のある日、祖母の住む仙台の家に一人の来客があった。仙台駅から「いまから、先生のとこへ行くからね」と電話がかかってきて、80歳近くになる祖母の教え子が不意に訪ねて来たのである。福島からだった。祖母は大正期から昭和期の前半、祖父とともに福島県の農村地帯で小学校の教師をしていたのだった。教え子がやって来ると祖母は教師の顔になった(と、あとから祖母の娘である母から聞いた)。すっかり老人となった教え子の思い出話やよもやま話に、耳を傾け、感心し、よくほめた。わが家に泊まることとなった老人は、「かんの先生の隣に寝たい」と言った。老人は一晩、祖母の隣に寝て、朝方福島に帰って行った。帰りぎわ、私の母に、「オレは病気になっているので、もう来れないからね」と言って帰ったという。ほどなく、そのご子息より、老人が亡くなったという電話が母の元にあった。かつての教え子は、死ぬ前に、小学校時代の教師だった祖母に会いたい、と思ったのである。そして、先生のそばで寝たいと思ったのである。

 祖父は88歳で他界したが、祖父母とともにかつての教え子たちから、厚く思われ続けた。毎年、果物の季節になると果樹農家をしている教え子たちから桃や梨、林檎が届いた。教え子が亡くなっても遺志を継いだ子息から祖母の元へ毎年梨が届けられることもあった。教え子たちが開く同窓会によく招かれては、福島に赴いた。わが家には祖父母が教え子から贈られた銘入りの火鉢や時計などがまだ残っている。教え子たちの教師への思いの厚さに、私は今でも驚くのである。

変化した「教師-子ども・保護者」関係

 教師が親や子どもから感謝されることが少なくなった、と感じることがよくある。むしろ近年、教師が親や子どもから批判され、否定され、追い詰められ、互いに不信感に陥ってしまう例も少なくない。教育カウンセリングの場で、学級崩壊、対教師暴力、保護者との教育トラブルといったケースを担当していて強く感じるのは、教師と子ども、学校と保護者の関係の変化である。それも寒々しい関係への。これは今に始まったことではない。戦後、特に高度成長以後のわが国の経済的、社会的変化とともに、じわじわと確実に進行したものである。子どもたちは、「私の先生」を同時期に多数もつようになった。学級担任の他に、塾の先生、習いごとの先生、スポーツのコーチ……。子どもたちは大学院もふくめた永い学校生活の中で何人いや何十人の「私の先生」とかかわるだろうか。親たちが学校の教師よりも進学塾の教師に対して厚くかかわることを責めることは出来ない。

 教師の「異人性」が消失した。かつて教師は地域の文化人であり、子どもにとっては、親でも近所の大人でもない「異なる」知識や価値観をもたらす存在であった。しかし現代ではそうした「異なる」側面は希薄化し、きわめて日常的存在となった。「三歩下がって師の影を踏まず」といった教師を敬う言葉が死語と化し、現代の子どもにとっては意味不明の言葉にしか思えないことだろう。

 
子どもが教師に願うこと

 しかし、と私は思う。社会の様々な変化や学校や教師と子ども・保護者の関係の変質にもかかわらず、カウンセリングの場で出会う子どもたちは意外と素朴な思いを教師に抱いているのである。すなわち、自分を大事にして欲しい、可愛がって欲しい、ほめて欲しい、認めて欲しい、と。大学生の会話でも、「好きだった先生」「進路選択に影響を受けた先生」「忘れえぬ教師」の存在は健在なのである。彼らが語る教師像は少なくても私が子どもの頃抱いたものとあまり変わらない。子どもを可愛がり、教育に情熱とエネルギーを沢山注ぎ、あたたかい心の持ち主、そして子どもの目を新たな世界に開かせてくれる教師である。教師という仕事に自信を失い、自己不確実感にとらわれ、精神的不調に陥る教師も少なくない。カウンセリングの場でそうした教師に出会うたび、私は「教育の原点はそれ程変わっていない。子どもたちの表面的行動の奥にある教師への素朴な願いに目を向けて欲しい」と願うのである。

菅野 純(かんの・じゅん)/早稲田大学人間科学学術院教授

【略歴】

1950年、宮城県仙台市生まれ。早稲田大学第一文学部心理学専攻卒業。同大学大学院修士課程修了。教育臨床心理学および発達臨床心理学専攻。臨床心理士。1973年より、14年間、東京都八王子市教育センター教育相談員として、幼児期から少年期、青年期の発達障害、不登校、非行、家庭内暴力など子どもたちのさまざまな問題の相談に従事する。1987年より早稲田大学人間科学部専任講師、助教授を経て、現職。早稲田大学人間科学学術院心理相談室長。学校カウンセリング、臨床心理学などの授業、ゼミ指導。並行して東京都や神奈川県、埼玉県の教育相談機関や情緒障害学級のスーパーバイズや学校コンサルテーションを行なう。

【主著】

『子どものこころを育てる「ひとこと」探し』(ほんの森出版、2002年)、『反省的家族論』(実務教育出版、2003年)、『教師のためのカウンセリング実践講座』(金子書房、2007年)など多数。