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鈴木 伸一

鈴木 伸一(すずき・しんいち) 早稲田大学人間科学学術院准教授 略歴はこちらから

心理学が拓く新たな心のセーフティーネット

鈴木 伸一/早稲田大学人間科学学術院准教授

現代社会のストレスと心の健康

 「ストレス」という語は、かつては学術用語であったが、今では小学生でも当たり前のように使う日常用語になった。また、ストレスに関する研究もこの数十年間で飛躍的に進歩し、ストレスの経験が、身体調節機能である免疫系、内分泌系、自律神経系などの生体システムや、それをコントロールしている脳の活動にどのような影響を及ぼすかについて次々と新しい知見が見出されるようになっている。

 ところで、ストレスについて多くの人が関心をもち、ストレスに関する多くの研究成果が得られたことで、私たちはストレスを克服することができるようになったのだろうか? その答えはおそらく「No」である。この10年間、日本では自殺者が年間3万人を越え、企業ではうつ病等による休職者が増加しているのが現状である。その背景には、「研究の対象」としてのストレスへの取り組みと、「健康を守るための対策」としてのストレスへの取り組みとの間に、大きな隔たりがあったことを認めざるをえない。

 しかし、わが国の現状を考えるともはや猶予はなく、現代社会が抱えるストレスへの根本的な対策を「本腰を入れて」展開する必要に迫られている(なぜ「本腰」を強調するかといえば、ストレス対策というニュアンスは、すでに20年前の旧労働省が示した指針にも明示されているが、現場レベルでは十分な対策が取られてこなかった現状がある)。本稿では、今後の日本が取り組むべきストレス対策の重要なテーマを取り上げて、その方向性を示していきたい。

うつ病および自殺予防対策

 日本では1998年以降、年間3万人以上の人が自殺している。交通事故死者数が年間7千~8千人程度であることを考えると、非常に深刻な数字であることがわかる。世界保健機関(WHO)の報告では、自殺者の95%以上(自殺既遂者については正確な調査が行えないので推定値)がその直前に何らかの精神疾患に罹患していた可能性があると考えられており、なかでもうつ病が比較的高い割合を占めている。また、自殺には至らないまでも、精神的な不調を理由に長期休職する人の割合が急増しており、2007年の人事院の報告(国家公務員に関する集計)によれば、長期休職者の63%がうつ病などの精神疾患を理由とする休職であったという。

 これらの現状から、厚生労働省が中心となって働き盛りの年代を対象としたメンタルヘルス対策が企業および地域で進められている。しかしわが国の対策は諸外国に比べて決して先進的であるとはいいがたい。今後より包括的にきめの細かい対応が必要であると思われるが、そのポイントとしては以下の4点を強調したい。

  1. 予防的取り組み:職場や地域においてうつ病や自殺、およびストレスマネジメント(ストレスの自己管理方法)に関する教育的な活動を行うとともに、当事者だけでなく、周囲の者を支えるシステムを確立していく(周囲の者がどのように対応したらよいかなど相談できる場所の整備)。
  2. 早期発見・早期受診:慢性的なストレスを感じている人や心身の不調を訴えている人を早期に発見し、適切なケア(医療機関の受診やカウンセリング)につなげていく。
  3. 一般医と精神科医の連携:うつ病に罹患した人が最初に受診する場所は地域の内科医であることが非常に多い。その背景には、精神科受診への抵抗感も存在すると考えられるが、それ以上に、うつ病の症状として倦怠感や身体的愁訴が多く認められるという理由が大きい。このことから、一般医における精神疾患への対応能力を高めるとともに、必要に応じて精神科医と連携して治療が行えるようなネットワークづくりが急務である。
  4. 心理社会的リハビリテーションの拡充:うつ病に対する薬物療法は飛躍的に進歩しており、適切な治療を行うことで比較的良好な経過をたどり、安定した状態を維持できるようになっている。しかし、症状が安定したからといって、すぐに職場復帰が可能になるわけではない。ストレスにうまく対処していきながら、社会生活にスムーズに再適応していくための「心のリハビリ(心理社会的リハビリテーション)」が必要である。具体的には、生活リズムを整えながら、復帰のための活動計画を立て、それに取り組みながら自信をつけていき、前向きな気持ちと自信を育てていく。また、ストレスへの上手な対処法を学ぶとともに、マイナス思考を抜け出して、柔軟な考え方ができるように練習していくことが有効である(これらの支援方法は「認知行動療法」と呼ばれている)。
医療におけるメンタルケアシステムの確立へ

 うつ病やストレスは働く人たちだけの問題ではない。がんや心臓病などの重症疾患や、糖尿病や腎障害などの慢性疾患、さらには神経難病をはじめとする難治性疾患など、さまざまな病気を抱える人の不安やうつの問題も大変深刻である。たとえば、国立がんセンターの報告では、がん患者の20%~40%が遷延化した抑うつ状態にあることが報告されているし、某医療機関が心臓疾患患者を対象に2500人規模で実施した調査結果によれば、心臓病患者におけるうつ病の有病率は、推定で14%であると報告されている。「身体が病めば、心も病む」ということは誰でも知っていることであるのに、わが国の現状としては、身体疾患患者の心のケアや患者を支える家族のケアは欧米に比べて大きく遅れている。

 もちろん現在の医療システムにおいても、深刻な精神症状が現れてくれば、身体疾患の治療に加えて精神科的治療が行われることになるが、身体疾患の治療に伴うストレスや病気の予後への不安などについての日常的なケアにはほとんど手が届いていない。このような身体疾患患者の心のケアには、心理士の貢献が期待されているが、現行の医療保険制度の中では心理業務に関する国資格が存在しないことから、心理士が医療の中で貢献しにくい状況にあることが大きな問題であるといえるだろう。

「こころのセーフティーネット」構築に向けた心理学の貢献

 「こころへの支援」へのニーズは社会のなかで確実に高まっている。しかし、どこに行けばよいのだろうか? 本稿で述べたように、地域、企業、医療機関におけるシステム整備は急務であるが、システムが整備されたとしても、それらのシステムへの「橋渡し役」「案内役」がいなければ、おそらくそのシステムは十分に活用されることはないだろう。なぜなら、受け皿的なシステムは、ある意味「困ったときに行く場所」として認識されるが、メンタルヘルス問題の多くの当事者は「まだそれほどではない」「すこし休めば元気になる」「そんな場所には行きたくない」というさまざまな内なる障壁(当事者が感じる抵抗感など)を抱えているからである。つまり、今必要とされているのは、「専門的ケア」だけでなく「日常的ケア」であり、「専門的ケア」を機能させるための「こころのセーフティーネット」の構築なのである。このネットワークの担い手としてもっとも貢献できる専門性は「心理学」に他ならないと確信している。

鈴木 伸一(すずき・しんいち)/早稲田大学人間科学学術院准教授

ホームページURL:http://www.f.waseda.jp/ssuzuki/

【略歴】

東京生まれ 東京女子医科大学心理士、綾瀬駅診療所心療内科心理士、岡山県立大学保健福祉学部専任講師、広島大学大学院心理臨床教育研究センター主任(助教授)を経て、2007年4月より現職。日本行動療法学会(理事)、日本行動療法士会(事務局長)、日本行動医学会(教育研修委員長)、日本認知療法学会(理事)、日本循環器心身医学会(理事)、日本不安障害学会(評議委員)、日本ストレス学会(評議員)、生活習慣病認知行動療法研究会(幹事)、Medical Psychological Network(代表世話人)、東京認知行動療法アカデミー(理事)。専門は、臨床心理学(認知行動療法)、臨床ストレス科学、行動医学。チーム医療を基盤とした心理士によるメンタルケアシステムの構築をライフワークとしている。

【主著】

「学校,職場,地域におけるストレスマネジメント実践マニュアル」北大路書房(2004)、「実践家のための認知行動療法テクニックガイド」北大路書房(2005)、「慢性うつ病の精神療法:CBASPの理論と技法」医学書院など多数。