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十重田 裕一(とえだ・ひろかず) 早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

閉塞の現代を映す「蟹工船」ブーム

十重田 裕一/早稲田大学文学学術院教授

 「蟹工船」という言葉が、かつてないほど日本のメディアを賑わしている。「蟹工船」とは、小林多喜二が1929年に発表したプロレタリア文学の代表作である。この小説は、日本の北洋で漁獲した蟹を缶詰にする蟹工船を舞台とし、その労働者たちは、厳しい監視のもとで非人間的な労働を強いられ、上司からしばしば激しい暴力を振るわれていた。権力者たちによって続けられる理不尽な行為に対し、労働者たちが一致団結し決起するまでのプロセスが描かれている。そのような小説のタイトルが、ここ数ヶ月のあいだに、新聞・雑誌・テレビ・インターネットなど、様々なメディアに頻出しているのである。

 いわゆる「蟹工船」ブームは、作家の高橋源一郎さんと雨宮処凛さんが対談で(「毎日新聞」1月9日朝刊)、現代日本と「蟹工船」を関連づけて発言したことを契機に、書店で売り上げを伸ばし、増刷を繰り返すことで発生したとされるが、ここ数ヶ月のあいだに拍車がかかっているように見える。いまや、平成時代のある社会状況を映し出したキーワードとなりそうな勢いである。日本社会に広く浸透しつつあるように見える「蟹工船」ブームは、現代日本のどのような状況を映し出しているのであろうか。

 このことを考えるうえで格好の新聞広告がある。「読売新聞」2008年5月29日朝刊に掲載された、新潮文庫版『蟹工船・党生活者』の4段にわたる広告がそれである。「蟹工船」の記事の掲載数が急速に増え始めるのと同じ時期にあらわれたこの広告のキャッチコピーに、「蟹工船」ブームの特徴が表れている。

 ここには、「過酷な労働環境を描いた名作が、平成の「格差社会」に大復活!」とある。さらに、「「蟹工船」悲しき再脚光 格差嘆き 若者共感」(「読売新聞」5月2日夕刊)、「蟹工船 はまる若者 過酷な労働に共感」(「朝日新聞」5月13日朝刊)、「プロレタリア文学の名作 『蟹工船』異例の売れ行き」(「毎日新聞」5月14日夕刊)と全国紙三紙の見出しがあわせて紹介されている。

 これら広告のコピー、新聞記事の抜粋からは、だれが、何に共感して「蟹工船」に関心をもち、この小説がなぜ多くの発売部数を誇るようになったか、その理由がうかがえる。グローバリズムを背景にすすむ格差社会の過酷な労働環境、そして、そのなかで苦しむ若者の「蟹工船」に共感する姿が、ここからはイメージされてくるのである。

 もっとも、「蟹工船」ブームを、そのまま歴史的な小説「蟹工船」の復権と同義にとらえることは、現段階ではできない。いくつもの身近な事例や、様々なメディアが伝える「蟹工船」の情報からは、小説「蟹工船」が必ずしも多くの読者を獲得している確証が得られないからである。昨今のブームは、"名作復権"をうたう"名作"漫画化の流れをくみ、出版された漫画版「蟹工船」に支えられながら、様々なメディアが「蟹工船」をめぐる情報を次々に報道することでつくられてきた感がある。ただし、それこそが今日的といえるのかもしれないが。

 しかし、メディアの力が作用していたにせよ、80年前の小説が現代に甦り、脚光を浴びるようになったことは、紛れもない事実である。また、読書コンクールに入選した、若い読者の感想文集「私たちはいかに「蟹工船」を読んだか」(2月刊)のような成果も現れている。ここに収録された感想文からは、若い読者たちが、「蟹工船」と現代社会とのあいだに共通性・類似性を見出し、登場人物に自己の姿を重ねて共感しながら、小説あるいは漫画を読む切実な姿が浮かび上がってくるのである。

 若い読者の読後感からは、「蟹工船」への同一化と共感がブームを支えていることが見えてくる。また、「今の日本」に対して若者たちの感じている「息苦しさ」がうかがえる。いまや「蟹工船」は、小林多喜二の小説の表題であることをこえて、先行き不透明な、閉塞した現代に対する不安を映し出す「記号」として流通している。そしてそれは、メディアの伝える、社会の事件を次々に内包しながら、「負の記号」として機能しているのである。

 「蟹工船」は、格差社会、過酷な労働に加えて、さらに、偽装問題、無差別殺傷事件など、新たな社会的事件が起きるたびに、関連づけて言及される。それが昨今のブームの特徴であり、「蟹工船」は現代社会の様々な負の出来事を映し出す鏡としての機能を果たし、その代名詞と化したのである。

十重田 裕一(とえだ・ひろかず)/早稲田大学文学学術院教授

【略歴】

1964年、東京都生まれ。早稲田大学教授。大妻女子大学専任講師、早稲田大学助教授を経て現職。日本近代文学専攻(新感覚派を中心とするモダニズム文学の研究、出版文化論、映像文化論など)。近著に『コレクションモダン都市文化19 映画館』(2006年)、『文学者の手紙4 昭和の文学者たち』(共編、2007年)など。