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寒川 恒夫(そうがわ・つねお) 早稲田大学スポーツ科学学術院教授  略歴はこちらから

北京五輪の功罪
― クーベルタンが目指したもの ―

寒川 恒夫/早稲田大学スポーツ科学学術院教授

聖火リレーの持つ意味

 北京オリンピックは、開幕前から、世界の注目を浴びていた。聖火リレーの妨害はその象徴であった。チベット人の自由を支援する人々が、聖火が巡る国々で、多くが非合法的に意志表示をしたのである。妨害は中国サイドには当然予想されていたものであったが、予想のズレの大きさは、そのまま、人権に対する中国と世界の感覚のズレを示していた。

 聖火リレーはもともと古代オリンピックと無縁であった。灯火を引き継いで走ることは知られていたが、それさえ、文化英雄のプロメテウスがゼウスの独占する火を人間にもたらした神話を再現する儀式においてのものであった。ゼウスのための奉納スポーツ大会であるオリンピックに、そもそもゼウスを困らせた行為を加えるはずもない。いずれにせよ、聖火リレーは1936年のナチス・オリンピックが創った伝統であった。聖火リレーは開催国が世界に向けておこなう平和アピールだが、今回はむしろ、世界から中国に発せられたメッセージであった。

オリンピックは政治の申し子

 「スポーツは政治から独立して在るべきだ」という主張を、よく耳にする。しかし、これ程空しい言葉もない。近代オリンピックの歩みは、主張とは反対に、政治とからんだが故にオリンピックが今日の影響力の大きさを勝ち得たことを示している。国際オリンピック委員会が自力で大会を運営する経済力をもたず、全面ギリシア政府が負担した第1回アテネ大会では、時の皇帝ゲオルギオス1世は、オリンピックに示したギリシア国民の熱狂の大きさをみて、もともとデンマーク王子でイギリスの後押しで帝位についたいわばヨソ者の王は、国民の歓心をかうためにギリシア恒久開催を提案し、世界展開を譲らないクーベルタンと派手に渡り合った。

 また、参加は国内オリンピック委員会単位という1908年ロンドン大会の決定も、オリンピックに政治を呼び込む契機となった。民族の併合・独立をめぐって対立関係にある2つの集団がオリンピックの場で対等であるのか、それとも一方が他方に含み込まれるのか、いずれの形で表現されるかは、国際政治上の重要な問題となったのだ。それまで独立して出場していたアイルランドは、イギリス・チームに組み込まれることになり、その結果、アイルランドにおける反イングランド感情は以前に増して激しいものとなった。

 こうした状況は世界各地で発生した。さらに、当時浸透し始めた進化論の優勝劣敗(Survival for the fittest)の思想を背景に、オリンピックでの勝ち負けが国家や国民の優秀性を示す代理戦争の性格をもち始め、この国際政治のうまみが政治リーダー達の関心を呼び込み、オリンピックに法外な国家予算を投入させることになった。オリンピックは、まさしく、政治の申し子なのである。

アスリートに求めるもの

 「スポーツは政治から独立して在るべき」、この空しい言葉を空しいままにしておくのは知恵のないことである。スポーツは政治にどっぷりと漬っている。しかし実は、スポーツ以外の文化も、宗教であれ文学であれ音楽であれ科学であれ、大なり小なり政治との関わりの中で生きている。そうした中にあって一人スポーツだけが例外というわけにはゆかない。それだからこそ、オリンピックは矛盾だらけの現実から切り取られた、せめて一時の理想空間なのだとも説かれる。

 理想空間が有する国際平和創出機能は無視できない程に大きいことを今日の我々は知っている。少しでも扱いをまちがえればこわれてしまうこのあやうい空間を、クーベルタン以来100年間、世界は守ってきた。古代オリンピックならゼウスの宗教的権威が1200年にわたってこれを保証したが、今日ではゼウスに頼るわけにゆかない。世界の人々の良識に訴えるしかないのだが、とりわけアスリートに期待したい。用意された舞台のうえで披露される極限のパフォーマンス、それだけで十分アスリートは責を果たしている。

 だが、しかし、しかしと問う。平和の恩恵の享受者であると共に、平和創造者の自覚をと。国際オリンピック委員会は「オリンピック休戦センター」を設立し、国連と協力して、オリンピック期間中と否とを問わず休戦を世界に呼びかけている。しかし、今回、開幕式に合わせるかのようにロシアとグルジアが開戦した。古代ギリシアの賢人アリストファネスの「競技者がおったところで国(ポリス)がうまく治まるものではない」の苦言は今こそ返上する時だ、とのクーベルタンの声が聞こえてきそうである。

寒川 恒夫(そうがわ・つねお)/早稲田大学スポーツ科学学術院教授

【略歴】

1947年和歌山県生まれ、筑波大学大学院博士課程修了、学術博士。現在、早稲田大学スポーツ科学学術院教授。専門はスポーツ人類学、スポーツ文化論。

【著作】

遊びの歴史民族学,2003,明和出版。
相撲の宇宙論,1993,平凡社(編著)。
教養としてのスポーツ人類学,2004,大修館書店(編著)。
図説スポーツ史,1991,朝倉書店(編著)。
スポーツ文化論,1994,杏林書院(編著)。