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福田 育弘(ふくだ・いくひろ) 早稲田大学教育・総合科学学術院教授 略歴はこちらから

「ミシュラン・東京」から見えてくるもの

福田 育弘/早稲田大学教育・総合科学学術院教授

 本邦初だった昨年に続いて『ミシュラン東京』の2009年度版が、2008年11月28日に発売された。4年間のフランス在住時はもちろんのこと、ほぼ毎夏2週間ほどを過ごすフランスでの旅行時にすでに20年以上本家の『ミシュラン・フランス』を使いつづけてきた身には、『ミシュラン東京』からいろいろなものが見えてきて面白い。

 まずは、本家『ミシュラン』との相違から。

 本家のミシュランには、星付きでないレストランも数多く収録されているが、東京版では星付きのみだ。フランス版は、懐具合と腹具合に合わせて美味しいものをさほど気どらない環境で食べたいという欲求も満たしてくれる。1998年版から登場した「そこそこの値段(コースで4000円ぐらい)で手のこんだ料理」が食べられる店を示すビブ・グルマンは、そうした使い手の意向を反映した表示システムだ。同様に東京版ではホテルも、かなり高級な施設しか載っていない。

 もうひとつ大きな相違点は、『ミシュラン・フランス』には必ず付いている、読者がホテルやレストランについてサービス、内装、料理などの10項目を4段階で評価し、さらにコメントを書き込めるミシュラン社あてのアンケート書簡(2通)が、東京版にはないことだ(意見を受けつけるメールアドレスはある)。そして、この評価項目のトップにあるのが「質と価格の関係」、つまりコストパーフォマンスがいいかどうかの評価なのだ。

 まさに、ここにフランスの「ミシュラン」のすべてが表現されている。消費者のさまざまなニーズに合わせて多様なカテゴリーの店をセレクトするという編集方針だ。これに対し、星つき高級店にのみ絞り、料理の質だけを問題にしたのが東京版である。マスコミの報道が、どこが3つ星かに集中したのもうなずける。

 また、フランスでは毎年2月にその年の版が刊行されるが、日本では前年の秋に翌年のものが出る。ここにも、季節を前倒しして初物を喜ぶ日本人の感性や、年末年始の宴会を見越した編集側の思惑がみてとれて興味深い。

 もともとホテル・レストランガイドをタイヤ会社のミシュランが出すようになったのは1900年のことで、最初のガイドは無料で自動車を持っている人に配られた。自動車でのヴァカンスを促進すれば、結果としてタイヤが売れるからだ。当時のフランスは第三共和制で、都会の富裕層の車でのヴァカンス熱の高まりに呼応するかのように、中道左派政権が地方振興政策を推し進めていた。ミシュランは、都会の富裕層が地方を快適に旅行し、適度に洗練された地方料理を味わうことのできるホテルやレストランをセレクトして紹介したものなのだ。

 都会人にとっての心地よい田舎を発見するためのツール、それがミシュランだ。そして、地方の側もこれまでの伝統に多少とも関連性を持たせながら(ときには新たに伝統を作りだしながら)都会人に受ける洗練された郷土料理を出すことで、ヴァカンス客によって潤い、しかも郷土意識を高めるというアイデンティティ上の効果もあったのである。もちろん、基本は自前であるから、対価への評価がシビアなのは当然だ。

 その点から見ると、日本人スタッフがいるとはいえフランス人という部外者(=旅行者)の価値観で日本のホテルやレストランを評価するというのは、まさにミシュラン的であることがわかる。

 しかし、当然ミシュラン的規準では、はみ出る要素がでてくるのは、相手が異文化だからしょうがない。たとえば、ミシュランではどんなに料理が良くても、店の雰囲気やサービスに一定のプレステージがないと3つ星にはなれない。しかし、世界初の3つ星鮨屋は、雑居ビルの一隅でトイレも共同、席もカウンターが主体である。本来のミシュランでは3つ星とはならない店構えとサービスである。

 これは鮨をはじめミシュランにも掲載された蕎麦や鰻といった日本料理が、本来江戸時代の屋台、つまり今風にいえばファストフードから高級化したというヨーロッパにはない独自の歴史からくるものだ。日本人には結構当たり前な「早くて美味い」は、ヨーロッパでは両立しにくい概念なのだ。この異質な飲食文化をミシュランが評価せざるをえなかった点がとても興味深い。長居の客は嫌がれるという江戸っ子的感性が、3つ星ではゆったり落ちついてディナーというヨーロッパの伝統とはちょっと相容れないのではないかなどと余計な心配もしてしまう。しかし、それもまた文化の交流のあり方であるのだろう。

 そういうものだと思ってミシュランを活用するのが、わたしたちにとって賢い利用法であると思う。

福田 育弘(ふくだ・いくひろ)/早稲田大学教育・総合科学学術院教授

【略歴】

1955年 名古屋生まれ。早稲田大学第一文学部フランス文学科卒業、同大学院文学研究科博士課程中退。1985年9月-1998年9月までフランス政府給費留学生としてパリ第3大学博士課程(フランス文学・文化専攻)に留学。D.E.A.(専門教育課程修了証)取得。2000年4月-2001年3月、プロヴァンス大学研究員としてエックス・アン・プロヴァンスに滞在。流通経済大学助教授を経て、現在、早稲田大学 教育・総合科学学術院 教授。専門は、複合文化学(とくに飲食表象論、ポストコロニアルの文化・文学(マグレブ〔北アフリカ地域〕のフランス語文学)、フランス文学。

主要著訳書・評論(日本語で発表したもののみ) 出版年の新しい順
【著書】
『飲食というレッスン ―― フランスと日本の食卓から――』(三修社、2007)
『ワインと書物でフランスめぐり』(国書刊行会、1997)

【訳書】
アブデルケビール・ハティビ『マグレブ 複数文化のトポス』(青土社、2004、澤田直との共訳)
ミシェール・ビュトール『即興演奏 ビュトール自らを語る』(河出書房新社、2004、清水徹との共訳)
ロジェ・ディオン『フランスワイン文化史全書』
ぶどう畑とワインの歴史』(国書刊行会、2001、三宅京子・小倉博行との共訳)
ラシッド・ブージェラド『離縁』(国書刊行会、1998)
ロジェ・ディオン『ワインと風土』(人文書院、1997)