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渡部 幹(わたべ・もとき)早稲田大学高等研究所准教授 略歴はこちらから

『不機嫌な職場』を生んだ日本社会
―流動化時代を生き抜くには

渡部 幹/早稲田大学高等研究所准教授

「不機嫌な職場」を通してみる日本社会の変化

 2008年1月にビジネスコンサルタントの友人とともに『不機嫌な職場』(講談社新書)という本を出版した。おかげさまで、これまで25万部を超えるベストセラーとなり、多くの反響をいただいた。この本の中で私たちは、日本の職場の「不機嫌さ」は「社員同士が協力できないという問題」であるとし、私の専門である社会的交換理論の立場から、分析を行っている。基本的に会社組織は、社員ひとりひとりが労働というコストを払い、それによって得た利潤を分配するというシステムで成り立っている。同僚が困っていたら助けたり、隣の部署が忙しくて大変な時に業務の一部を肩代わりしたり、組織全体として仕事がうまく運ぶように、社員が相互協力を行うことで利潤を産みだしていく。しかし、近年になって相互協力ができなくなる職場が急増し、社員は忙しさの中で疲弊し、孤独を感じ、ときには精神的な病を患うことも起こるようになった。つまり、皆協力したがらないような職場へと、日本の会社組織が変わってしまったのだ。

 『不機嫌な職場』では、そのような職場のより詳しい分析と実例を挙げての対策法を示しているのだが、本稿では本の中では触れることのできなかった問題――不機嫌な職場を生む社会の変化――について述べようと思う。

キーワードは「流動性」

 私たちの取材では、不機嫌な職場が増え始めたのは、バブルが崩壊し、成果主義が導入され始めた1990年代からで、2000年代にはいると、その増え方は加速している。この時期の日本社会には多くの面で変化があったが、それを包括的に表すキーワードのひとつとして、私は「関係流動化」を挙げたい。関係流動化とは、社会関係を持つ相手や組織が変わる可能性が増えることを意味している。終身雇用の時代は、いったん会社に勤めたならば、定年までそこに居続けることが普通であった。しかし、現在では同じ職場に一生勤めるつもりで就職活動をしている学生は少数だろう。職場や職種を変える機会が多いならば、それに伴って友人関係や地縁の知り合い関係も流動的になる。ネットオークションの普及、離婚率の上昇などが示すように、現在は生活の様々な側面で関係が流動的となり、固定的、安定的な関係が基盤であったバブル前までとは大きく異なっている。

高流動社会と協力の崩壊

 関係流動化が進むことで、基本的に人間関係や組織間の関係は短期化する。ゲーム理論によると、つきあいが短期的になると、目先の利益を得るために相手をだまして「ただ乗り」をするメリットが増えるとされている。事実、ネットオークションや出会い系でのトラブル、振り込め詐欺など、現在ではそのような「ただ乗り」の報道がなされない日はない。厳密には「ただ乗り」と呼べないまでも、フリーターの増加や派遣切りの問題も関係流動化の負の側面を示している。そして新聞やニュースに載らないような日常の仕事や生活でも流動化の影響は出ている。その代表が「不機嫌な職場」だ。自らは協力しない「ただ乗り社員」が増えてしまうのである。

高流動化社会のメリット

 しかし、関係流動化がもたらす良い側面もある。それは、「より良い関係を結ぶチャンスが潜在的に増える」(経済学でいう「機会コスト」の増大)である。自分に見合ったモノや場所、あるいは関係性を構築するための機会は飛躍的に増大する。例えば、ネットオークションなしでは手に入れられなかったものを、ネットで入手できた人は多いはずだ。ただし、ここで重要なのは、高流動化社会の正の側面と負の側面は表裏一体という点だ。ネットオークションで自分の本当に欲しいレアな品物を得ようとするならば、「もしかすると相手に騙されるかもしれない」というリスクを負って入札に参加しなくてはならない。

日本に必要なのは「こころと制度の変化」

 このような社会において、いかにして正の側面だけをうまく生かし、負の側面を抑制できるかについて、私は社会心理学の立場から主に実験手法を用いて研究している。この分野の研究成果から、現在のところ分かっているのは、日本人はどうやら高流動化社会のメリットをうまく生かすためのメンタリティをまだ身につけていないということだ。そして、日本の社会制度もまだ未成熟である。

 「より良い関係を結ぶチャンス」を活かすためには、(1)新しい関係に飛び込むことを恐れないメンタリティ、(2)新しい関係に飛び込んだ結果「ただ乗り」されないようにする制度、の2点がもっとも重要となる。 前者についての研究では、他者、とくにあまりよく知らない他者についての「信頼」が新しい関係を結ぶのに大きな役割を持っていることがわかっている。調査研究によると、米国人、中国人と比較して、日本人の信頼感は低く、新しい関係を結ぶのにあまり積極的ではないことが明らかになった。このことは、高流動化社会のメリットを活かすメンタリティがまだ日本人には十分に醸成されていないことを示唆している。

 では、どのようにしてメンタリティは醸成されるのか。私は制度の充実がそれを促し、さらに促された結果、メンタリティがますます強固に制度を支えていくという相互影響の過程を作ることが最も重要と考えている。そのためには、まず後者の制度を変えることから始めなくてはならない。

信頼を支える制度の充実を

 他者を信頼することが重要だとわかっていても、やみくもに信頼していたのでは、ただ乗りされてしまう危険が大きくなる。そこで重要となるのは、(2)の制度である。正直者が馬鹿を見る、という事態を防ぐような制度や法の整備が必要だ。個人的には、その第一歩となるのは、さまざまな意思決定プロセスの透明化とアカウンタビリティの徹底だと考える。ただ乗りを目論む者は、大抵の場合、ただ乗りしていることを隠そうとする。それが暴かれ、公正な手続きのもとで修正される必要があり、そのプロセスもすべて公開されるべきである。

 このように考えると、たとえば、先日の事業仕分けのもたらした意義は大きかったように思える。審議方法や仕分け結果については、まだまだ議論の余地はあろうが、仕分けの様子をネットで公開することで、プロセスの透明化を図っている点はおおいに評価したい。このような情報公開が進むことで、正直に協力的に生きることが報われるのだという規範が社会に浸透し、流動化のメリットを活かした高信頼社会へと日本が変化することを期待している。私も自身の研究を通じて、微力ながら貢献できればと願っている。

渡部 幹(わたべ・もとき)/早稲田大学高等研究所准教授

【略歴】
北海道大学文学部卒。UCLA大学院社会学研究科修了。Ph.D.(社会学)。北海道大学助手、UCLA研究助手、京都大学助教を経て、2007年より現職。専門は社会心理学・実験経済学。組織や集団の問題を心理学と経済学の観点から、実験やコンピュータシミュレーションにより分析。著書に『不機嫌な職場』(共著・講談社新書2008年)、『制度からガヴァナンスヘ』(共著:東京大学出版会2006年)、『感情科学』(共著:京都大学学術出版会2007年)、『入門・政治経済学方法論』(共著:東洋経済新報社2008年)など