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田中 幹人(たなか・みきひと)早稲田大学政治経済学術院准教授 略歴はこちらから

ウィキリークスがもたらした課題
-ネット時代の調査報道とは?-

田中 幹人/早稲田大学政治経済学術院准教授

ジャーナリズムとウィキリークス

 ジャーナリズム活動は、人々の「知る権利」のために行動するべきである、という規範論(べき論)によって駆動している。しかし、知る権利、と一口に言っても、人々が「知りたい情報」と、「知るべき情報」との間には、大きな違いがある。後者は、次の様な言葉で表すことができるだろう:
「未来のより良い社会に向けて、現在の社会が議論すべき問題(議題)とは何か」

 この議題を掘り起こし、社会に提示することが、ジャーナリズムの存在意義のひとつである。この意味で、ジャーナリズムの花形は「調査報道」にあると言われる。

 ところが、調査報道はコストがかかる割に儲からない。ジャーナリズムの歴史とは、この「儲からない調査報道を、どうやって持続可能なシステムで支えるか」という課題への挑戦史であったとも言える。

 ジャーナリズムを標榜するメディア企業は、この課題に対する回答をそれぞれに模索してきた。例えば、「経済情報を売って利益を上げ、それを元手に政治問題を追及する」といった具合である。こうしたシステムは、社会の議題をジャーナリストが一方的に設定する(=議題設定)という側面に問題を抱えてはいたものの、一応はジャーナリストの自律的な規範に拠って機能してきた。

 ところが、20世紀の終わりから普及したインターネット・コミュニケーション技術(以下ネット)によってメディアの勢力地図が変化したことで、このシステムが大きく揺らいでいる。

 その混乱に決定的なインパクトを及ぼしたと考えられるのが、ウィキリークスだ。イラク米軍誤射事件のビデオ公開、そしてジュリアン・アサンジ氏に対する国際包囲網の駆け引き。2010年、世界のメディアはウィキリークスの話題で持ちきりとなった。

 もはや「知るべき情報の素材」としてのリーク情報は、情報の専門家としてのジャーナリストが告発者から受け取る、あるいは嗅ぎつけるものではなく、いきなり広く大衆に突きつけられるものになってしまったのである。

ウィキリークスとウィキペディア

 ウィキリークスの名を始めて聞く人は、「ウィキペディア」と混同することが多い。この名称の部分一致は、両者ともに、人々がネット上で自由に情報を編集できる「ウィキ」と呼ばれるシステムを用いているからに過ぎず、内実は全く異なるものだ。

 しかし、ここであえてウィキという共通語にこだわってウィキリークスとウィキペディアを眺めると、また違った光景が見えてくる。

 今でこそ「みんなで作る、フリーのネット百科事典」としてその名を馳せているウィキペディアだが、その前身である「ヌーペディア」は、学術雑誌の様な「査読制」を前提としたシステムだった。つまり、人々がネット上で編集し、フリーで公開されるという点こそ現在のウィキペディアと同じだが、項目の執筆は専門家が行い、さらに別の専門家が内容を吟味したうえで公開していた。これは普通の百科事典と同じ、「専門知」を集約する仕組みである。

 しかし最終的にネット社会は、少数の専門家によるのではなく、多数の素人が知識を持ち寄ることで、自由で、より情報が豊かな百科事典を作り上げる仕組み=「集合知」に基づくウィキペディアを選択した。つまり、「ヌーペディアからウィキペディアへ」という流れは「専門知から集合知へ」という、ネット時代らしい情報の集積の仕方の変化であったと言えるだろう。

議題設定から議題構築へ

 興味深いことに、ウィキリークスが火を付けた「重要なニュースとなりうるリーク情報を、ネット公開して社会に問う」という新しい仕組みは、これと逆の道を緩やかに辿りつつあるようだ。

 初期のウィキリークスは、リーク情報を出しさえすれば、後は集合知が検証するだろうと期待していたふしがある。しかし、機密情報の公開によって、無関係な人々が危険に晒される可能性などが批判されるようになった今、ウィキリークスは、安全で秩序だったリーク情報の投稿システムや、情報の真偽を確かめたうえで公開することをアピールすると同時に、重要な情報は、検証が可能なだけの人的・経済的・社会ネットワーク的能力を持つ、英ガーディアン誌などの既存マスメディアに託すようになっている。

 情報は権力に対する武器となるが、情報はそれ自体も権力を持っている。ウィキリークスは、活動が社会に認知されるにつれ、この点に対して自覚的かつ慎重になってきたのである。

 これは、俯瞰すれば「集合知による情報を、専門知に託す」ことによって、「ネット社会とジャーナリストが、議題を協働的に構築する動き(=議題構築)」だと言えるだろう。これは、ジャーナリストが一義的に議題設定していた時代とはまた異なる、新たな時代の幕開けである。

議題構築の時代におけるジャーナリズム

 ウィキリークスが提供するのは、ニュースの素材に過ぎない。いわゆる「尖閣ビデオ」のように、社会における意味が前もって明らかになっていた情報ならば、それ単独で充分な社会インパクトを及ぼす。しかし、多くの埋もれている情報は「それはどんな意味があるのか、そもそもそれは真実なのか」といった根本的な問いに対する地道な検証を経て初めて、社会に問うだけの価値を持つ。

 もちろん、こうした機能を集合知が担うことも、想像はできる。しかし幾つかの点で、現在の「集合知」だけでは、ウィキリークスのもたらす情報は社会の議題までは構築しきれないことが予想される。

 例えば、政府や企業などの権力に関するリーク情報があったとき、それを検証する過程で、新たな情報により信頼性を補強する必要があれば、この情報の信頼性を担う個人、あるいは組織を記述せざるを得ない(※1)。しかしそれは、権力側に攻撃の糸口を与えることになる(例えば権力側からすれば、集合知内で目立つ人物を標的として、いわゆる国策捜査や恫喝訴訟(※2)を起こす、などの手法がある)。

 また歴史上「スクープ」とされ、社会に変革をもたらした調査報道の成果の多くは、何人ものジャーナリストが隠れた補強情報を求めて走り回り(こうした情報の多くは今も電子化されていない)、時には数年にわたる調査を行って得られたものである。こうした検証作業にかかる費用は数千万~数億円に達することもざらにある。

 こうしたコストのかかる検証が必要になった場合、無償を前提とし、また「熱しやすく冷めやすい」特性を持つ集合知だけでは、その調査コストをまかないきれない可能性がある。

※1 これは例えば、リーク情報の裏を取るために、関係者にインタビューした場合などを想定すればわかりやすいだろう。この場合、「関係者も発信者も匿名であった場合」は、情報の信頼性は極めて低いものになってしまう。

※2 恫喝訴訟(スラップ、SLAPP):被告に対するいやがらせを目的とした裁判。これは、訴える側にとっては、(例え書かれたのが事実であっても)社会的に「あの記事はウソである」とアピールする効果をもたらすと同時に、被告が訴訟への対応で忙殺され、それ以上の追求が不能になる効果がある。日本でも、自社に不利益をもたらす記事を書いた(特に個人の)ジャーナリストに対して訴訟を起こした例は多数有る。恫喝訴訟はジャーナリズムの世界では日常茶飯事であると言っても良く、このため既存のマスメディア組織では、恫喝訴訟を受けた際には、法務部や専属弁護士が対応し、ジャーナリストは訴訟そのものにはあまり関わらず、記事によって再反論することを可能にしようとしている。

もう一つの脅威:デマンド・メディア

 一方、ある意味でウィキリークスがもたらしたものの対極にあり、これからもう一つの台風の眼になりそうなのが、米「デマンド・メディア」社の動きだろう。

 デマンド・メディアが提供するのは、簡単に言うと「ネットで検索頻度の高いことがらをプログラムにより察知し、それに合わせた記事をライターが作製してネットに流す」という仕組みである。いわば、人々の「知りたい情報」への対応に特化したシステムだ。

 これによって、長期間にわたって検索結果に表示されるコンテンツを作ることができる。こうした「人気が約束され、賞味期限が長い」コンテンツは、それだけページからの広告収入を獲得出来るというわけだ。この仕組みによってデマンド・メディア社は急成長しており、この稿が出る頃には株式公開が予想されている。

 しかし、この手法のジャーナリズム的な危険性も明らかだろう。社会の舵取りをしていくためのジャーナリズムは、社会の行く末を見すえた「前向き」なものでなければならない。人々の知りたいという欲求に応えることは、現状の社会傾向を助長するか、既にわかっている問題を取り上げるに過ぎない、「後ろ向き」のジャーナリズムである。それだけでは未知の問題は浮かび上がってこないどころか、大衆迎合型のジャーナリズムとなる危険性もはらんでいる。

 米国内ではデマンド・メディア社の手法に対して、既に多くの批判の声が上がっている。ジャーナリズムの経済原理として「知りたい欲求」に対応するのは止む無しとはいえ、あまりに露骨で規範を逸脱している、というわけだ。

ネット時代のジャーナリズムを支えるもの

 デマンド・メディアの手法によって生み出される情報は、ハンバーガーのようなファスト・フードになぞらえられる。ジャーナリストがコストをかけてニュースを丹念に仕上げる「スロー・ジャーナリズム」と対照的に、とりあえず人々の欲求を手早く満たす、「ファスト・ジャーナリズム」というわけだ。

 伝統的なメディアが果たしていた、芸能人のゴシップやスポーツ情報などに対する、人々の「知りたい欲求」を満たす機能は、こうしたファスト・ジャーナリズムが果たしていくかもしれない。

 では、調査報道を担うスロー・ジャーナリズムはどうだろう?

 我が国のマスメディアは、調査報道の機能をますます失いつつある。しかし残念ながら社会の側も、未来のスロー・ジャーナリズムのコストを支えられるシステムを見いだせていない。

 レストラン・チェーンが高級料理店とファスト・フード店を経営するように、スローとファストのジャーナリズムをネットで融合するシステムも想像は出来るし、その萌芽と見なせるようなポータル・サイトもある。しかしいずれもまだ、コストをかけて調査報道を行う余裕は無い。

 規範と欲求、あるいはスローとファストのあいだでバランスを取り、持続可能なジャーナリズム・システムを構築していくことが、これからの社会の課題である。この過渡期においては、私たち自身も「知りたい情報」と「知るべき情報」の区別を意識し、「知るべき情報」の価値に対して対価を支払う意識を持たねばならない。

 そうした社会が実現して初めて、ウィキリークスのようなサイトが私たちにもたらす情報素材は、集合知と専門知の協働によって、社会の議題として構築されるようになるだろう。

田中 幹人(たなか・みきひと)/早稲田大学政治経済学術院准教授(ジャーナリズムコース)

国際基督教大学教養学部理学科卒、東京大学大学院博士課程修了(学術博士)。国立研究所ポスドク、早稲田大学科学技術ジャーナリスト養成プログラム 客員助手等を経て、現在は早稲田大学政治経済学術院准教授。大学院政治学研究科ジャーナリズムコースにおいて、科学技術とジャーナリズムやウェブの問題に関して研究や実践を行っている。また、現在は欧州と米国と共に「持続可能なネット・ジャーナリズム・モデル」に関する共同研究を行っている。最近の著作に『iPS細胞~ヒトはどこまで再生できるか』など。