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浜野 喬士(はまの・たかし)早稲田大学文学学術院助教 略歴はこちらから

動物倫理はカニバリズムを認めるか
――人間と動物をめぐる諸問題

浜野 喬士/早稲田大学文学学術院助教

「有感性」と「種差別」

 アメリカの倫理学者マーサ・ヌスバウムの言葉を借りれば、動物と人間の関係という問題は、今日まさに「正義のフロンティア」に位置している。近代以降人間においては、国籍、人種、性別、性愛、宗教を問わず、人間というだけで認められるに至った―――「開拓」された―――権利というものを、動物という「未開拓地」へと拡張してよいのか、それが問われる「フロンティア」なのである。捕鯨、イルカ漁、闘牛、動物実験、殺処分、ペット、集約的工場畜産、サーカス、動物園等々、これらをめぐる論争の背景となっているのは、こうした問題である。

 現代の動物倫理学にとって争点は「種」ではない。「有感性」という概念である。代表的な動物倫理学者ピーター・シンガーが、一九世紀の哲学者ベンサムの功利主義を念頭に導入したこの「有感性」とは、簡単に言えば、苦しむことができる、喜ぶことができる、という能力のことである。ある生き物が有感的であるならば、その存在者のもつ利害関心―――たとえば生き続けたいという自身の生命への関心―――は、種を問わず平等に配慮されねばならない。その際、別にその苦しみを言語のようなはっきりとした手段を用いて、理性的、論理的に伝達できる必要はない(人間にしても、すべての人がそうした伝達を行えるわけではない)。人間と動物を分かつ理性や言語といった伝統的な垣根は取り払われる。もはやどれほど知的能力が高くてもサルはサルだ、と言うことはできない。それは「人種差別」や「性差別」と同様の「種差別」であり、不当だということになる(こうしたロジックにより動物の地位は上がり、人間の地位は下がる)。

人肉との交換可能性

 動物の権利を尊重する人々のロジックは想像以上に一貫している。それでもなお、彼らに異議申し立てするためにはどうすればよいか。問いをアクロバティックに転換する必要がある。イギリスの倫理学者、ステファン・R・L・クラークは一九七七年の著作『動物の道徳的地位』のなかで、人肉と動物の肉の交換可能性、という奇妙な思考実験を行っている。すなわち、動物を計画的かつ大規模に生産・殺害し、それを食うことが動物の権利を毀損する「悪」であると前提した場合、その代案として、動物とは別の起源をもつタンパク質―――たとえば人肉―――で代替することは道徳的に妥当か、という問題である。もしその肉が、すでに死んでいる交通事故死体の肉であるとすれば、肉をそこから切り取っても追加で苦痛が発生することはない。他方、動物を殺せば苦痛が発生する。もし「種」ではなく、「有感性」という一点のみを基準とするならば、人肉食いというB級ホラー的な提案も一応理屈は通る。

 ましてや身体は今日すでに脱神聖化されている。近年では経済学者として有名な思想家ジャック・アタリは、初期の著作『カニバリズムの秩序』(一九七九年)で、臓器移植を、治癒を目的に他人を自分の体に取り込む「治療的カニバリズム」の現代バージョンと考えたわけだが、臓器移植が普通に行われる現代社会では身体はもはや神聖不可侵なものではないことが前提になっている。身体の脱神聖化が果たされている以上、体をバラバラにすること、究極的にはそのバラバラになった身体を「肉」として喰うことに理論的な障碍は存在しない。

 しかし当たり前だが、クラークの人肉代替案は、一般に受け入れられることはない。その理由は第一に、われわれの「動物」の肉に対するフェティシズムであり、第二にわれわれの人肉への忌避感情である。われわれが食いたい肉はあくまで人肉ではなく、「動物」の肉でなくてはならない。そのことで動物には苦痛が生じ、他方、事故死体を喰うなら苦痛は発生しないというのに、である。クラークによれば、こうした状況を変革する倫理的態度は、ベジタリアンになるということ、それしかない。動物の肉は喰わないと決意し、かつ人肉は喰えないというのなら、残るは植物性タンパクしかないからだ(肉を食わなくて済むような文化的段階にあるにもかかわらず肉を食い続けるのは野蛮だ、というロジックは、プルタルコスやルソーの著作にまで遡ることができる)。

肉食忌避をめぐるアポリア

 もしシンガーらが考えるように、動物が屠殺されるにあたっての「苦痛」こそが決定的な問題なのだとすれば、落雷の結果、偶然道で死亡した牛や、川で溺死した豚を喰うことは―――そしてすでに死んでいる人間を喰うことは―――道徳的にアディアフォラ、つまりどうでもよい、ということになる。これらの肉の獲得には、こちらから「苦痛」を与えるような積極的契機がないからだ。それでもこれらの牛や豚―――そして死体の肉―――を食べるべきではないとするならば、「苦痛」以外のものを持ち出すしかない。しかしそれは自分たちの思想的前提を切り崩してしまうことでもある。哲学者コーラ・ダイアモンドはこうした肉食忌避をめぐるアポリアについて「[・・・]人間は食べものではないのだ、という見解だと彼らが認めてしまう場合には、殺されたり虐待を受けたりしないという権利こそ、ベジタリアニズムの議論の核心である、というように権利概念を焦点化することはできなくなる」と論じている。 タンパク質の平等な配慮が求められるときに、人間の肉を、それが人間の肉であるがゆえに食うことができないとしたら、ある種の「種差別」的思考が残存していると言える。つまり人間と動物という古典的カテゴリーがなおも障壁として機能していることになるわけだ。

カニバリズムと自然法

 なぜ人肉を食べてはいけないのか、ということを問おうとすると、究極的には「自然法」の問題に突き当たる。人肉喰いの禁止を「生理的嫌悪感」といったマジック・タームを使わず説明しようとすると、人間の制定する人定法を超えたものを導入するしかない。人間が人間である以上守らねばならない、法律を超えた「法」、それが「自然法」である。他人を殺してはいけない、自殺をしてはならないといった命令が典型的な自然法である。アウグスティヌスは自然法を認識できるのは、神の被造物のうちで人間だけと考えた。

 人間が人間である以上守らねばならない自然法のリストのなかに、カニバリズムの禁止が含まれていると考えるのは自然なことである。キケロは人間が自然法を破った場合、人間は動物へと転落すると考えた(『国家について』)。ならば、「汝、人肉を喰うなかれ」という自然法の遵守は、まさしく人間が人間に留まるための決定的な条件ということになる。

 近代初頭、「新世界」の「発見」がなされた時代―――同時に真贋不明の先住民族カニバリズム譚がヨーロッパにもたらされた時代―――旧来の価値感が動揺するなかで、哲学者モンテーニュが『エセー』という単一の作品の中に、カニバリズム論と、動物論を並置したのは偶然ではない。今日のわれわれにとって人間と動物の境界が動揺しているのと同様、モンテーニュにとっても、人間の絶対的な地位は揺らいでいた。民族誌や航海記録を信じるならば、もはやカニバリズムは神話世界のものではない、現実のものである。だとすれば自然法の普遍性は決定的に動揺する(これはプーフェンドルフといった近代の法哲学者の大テーマとなった)。モンテーニュは「レーモン・スボン弁護」と名付けられた『エセー』内最長の章で、徹底的に人間をこき下ろし、反対に動物をかつてなく持ち上げている。彼の頭なかで動物と人間はすでに異常接近していた。双方が相手を「人喰い」と罵り殲滅を図る宗教戦争が継続し、かたやカニバリズム譚の大量導入という混乱の時代にあって、動物と人間は互いに見分けがつかなくなっていた。デカルトが『方法序説』のなかで、人間と動物を明確に区別し、動物を機械と断ずる、わずか五〇年前の出来事である。

浜野 喬士(はまの・たかし)/早稲田大学文学学術院助教

【略歴】
1977年茨城県生まれ
1996年茨城県立水海道第一高等学校卒
2000年早稲田大学法学部卒
2004年早稲田大学大学院文学研究科哲学専攻修士課程修了
2010年早稲田大学大学院文学研究科人文科学専攻哲学コース博士後期課程単位取得退学
2012年現在、早稲田大学文化構想学部現代人間論系助教、日本映画大学非常勤講師

主な業績
【単著】
・『エコ・テロリズム:過激化する環境運動とアメリカの内なるテロ』(洋泉社新書、2009年)
【共著】
・「正義はなされよ、世界は滅びよ:ウィキリークスにとって公益とは何か」『日本人が知らないウィキリークス』(小林恭子、 白井聡、 塚越健司、 津田大介、 八田真行、 浜野喬士、 孫崎享、洋泉社新書、2011年)
【論文】
・「なぜ捕鯨問題は解決できないのか」『日本の論点2012』(文藝春秋、2011年)
・「肉食忌避・ベジタリアニズム・動物:倫理学的動物論と人間・動物関係論」『叢書アレテイア』第14巻、御茶の水書房、2011年
・「カニバリズムの楽園:動物と人間の境界をめぐる思想的問題」『叢書アレテイア』第12巻、御茶の水書房、2010年
・「Rekonstruktion der Antinomie des Geschmacks(趣味のアンチノミーの再構築)」『Philosophia』第98号、早稲田大学哲学会、2010年
・「<反省概念の多義性>節の位置と意義」『日本カント研究』第7巻、理想社、2006年

専門
哲学、倫理学、環境思想史、人間・動物関係論