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森 治郎(もり・じろう)早稲田大学政治経済学術院講師 略歴はこちらから

新たな時代のメディアの公共性—「世のため、人のため」への道程

森 治郎/早稲田大学政治経済学術院講師

 今、「メディアの公共性」は大きな危機を迎えている。それは新聞・放送など既存メディアの公共性への信頼が大きく揺らいでいる一方、強大な影響力を持つに至ったインターネット世界から公共性の声そのものがほとんど聞こえてこない、というところに現れている。

 そうしたことがなぜ起きているのか、その打開のためにどうすることが必要なのか。筆者は、早稲田大学メディア文化研究所編で先月出版された『メディアの将来像を探る』の中での分担章「新たな時代のメディアの公共性」で追究した。

 新聞・放送など既存メディアについていえば、信頼性の喪失は「公共的存在」であることを声高に主張しながら、「なすべきこと」の実現が不十分であり、「やってはならない」行為が積もり積もった結果であるといえる。

 そうした既存メディアの状況が生まれた大きな原因として、メディアの公共性像の不明確さがあることを同書で指摘した。しばしば言われることだが、公共性は複雑多様な顔を持っており、容易に1つの像に収斂させることができない。学問的には当然のそのことが、結果としてメディアの公共性についても明確な像を結ばせなかった。不明確、曖昧なものは実行され難いのである。

 だからといって既存メディアの公共性実現の不十分さは免罪されない。その像を明確にし、社会的合意を得ることがメディア関係者にとっての急務だ。あることの実行、実現のためには、その像として精緻なものより近似的に示すことのほうが明確なものとなり、有効な場合がある。その意味で「公共性とは、特定の階層・階級・組織といった個別的な利害を離れて、社会全体の利益に尽くすこと」という、かつて岡田直之氏が指摘した(『新聞研究』2006年6月号)辞書的レベルの像は、それに該当するだろう。さらにいえば「世のため、人のため」というところまで単純化すれば、だれの目にも「公共性」の近似像がくっきりと見えてくる。

 そうした公共性のコアとなる理念、志をまず確認した上で、「メディアとしてそれをどのように実現するか」という具体的内容とプロセスの追究、態勢の確立が必要だ。

 そのとき心すべきことがある。メディアの公共性とは、言論報道放送機能といういわゆるジャーナリズムの側面にとどまるものではないということである。これまでメディア企業は、「公共的存在である」という葵の印籠を振りかざすことによって周囲を黙らせ、販売・広告・事業などの分野での非公共的あるいは反公共的行為を覆い隠すことがしばしばあった。それがメディアへの、そしてそのメディアが担っているとする公共性への社会的不信あるいは否定につながっている。メディアはまず、メディアの公共性とは販売・広告・事業などを含めた全活動領域で実現すべきものであることを自覚しなければならない。

 そこでは「してはならないことはしない」という意識はもちろんだが、「やれることはやる」ことも同じように重要だ。文化やスポーツ面での事業活動をはじめ全社的あるいは全業界的活動によって社会に大きく貢献できることが数多くある。そうしたことを真摯に、弛まず行うことがそのメディアへの信頼を取り戻すことにつながるだろう。

 一方、インターネット世界でのメディアの公共性の現状はもっと深刻だ。そこではあらゆるものが情報として大量に受発信されており、その意味であらゆる組織、集団、個人がメディアになることができる。「総メディア化」である。そのことが逆に「総非メディア」的状況を生み、メディアとして担うべき公共性への意識を薄いものにしている。

 筆者はこれまでに多くのインターネット情報企業のトップや担当者にインタビューしたが、その多くは自らを情報のプラットフォーマー、アグリゲーターであるとし、主体的に情報や判断を受発信する「メディア」であることを否定した。その理由は、「企業として多くのサービスを提供しており、ニュース的な情報はその1つに過ぎない」「情報を恣意的に編集して発信する既存メディアと一緒にされたくない」のどちらか、あるいは両方だった。

 そうしたメディア観は一定の説得力を持つと同時に、いくつかの危険性を内包している。それは受発信する情報や見解の多くを他者に委ねることになり、自己の責任があいまいにならざるをえないこと、その企業の経営の都合でいつでもメディア的行為から撤退することを意味している。それはどの時代にも必要な情報の信頼性、継続的受発信にとって大きなマイナス要因となる。また既存メディアへの批判が、メディアの公共性そのものの軽視ないし否定につながっている状況も生まれている。

 そうしたことの歯止めになりうるのがCSR(企業の社会的責任)である。あらゆる企業や組織に、その事業活動によって生じる影響に責任を持つこと、さらには積極的な社会貢献を促すこの「思想」は、インターネット世界での公共性の構築に大きな効果を発揮する可能性がある。ただしCSRにも限界がある。自己の責任については対処できても、社会が抱える問題について積極的に掘り起こし、為政者や責任機関の責任を問い解決を迫るという発想に欠けるところがあるのは否めない。それをどう植え込むことが可能か。その道を探る必要がある。

 最後に指摘しておきたいのは、個人の「メディア」としての自覚の大切さである。上述のように多くの個人が時にはマスメディアに劣らない情報受発信能力と影響力を持つ時代が来ている。その意味で「個人メディア」という大きなメディアジャンルの誕生といえる。ところが自己のメディア的行動の結果に責任を持つことへの自覚は未成熟だ。それをより早く、強固に育てることが、より住みやすい社会を形成するための大きな課題となる。

 そのための方途として目下のところは残念ながら、社会全体特にネット企業のCSR活動としてのメディアリテラシー教育活動を充実させることぐらいしか思い浮かばない。しかしそれが「次代の公共性を作り上げるため」という目的意識を強く持って行われるのとそうでないのとでは、結果に大きな差が出るに違いない。

森 治郎(もり・じろう)/早稲田大学政治経済学術院講師

【略歴】
1943年生まれ。早稲田大学政経学部卒。朝日新聞社で記者、編集者、メディア研究部門などを経て1999年から早稲田大学政経学部、大学院公共経営研究科、同政治学研究科で「メディア最前線講座」「メディア現代史」「メディアと技術」「メディアリテラシー」「フリーペーパー講座」などを担当。現在はメディア文化研究所主宰のメディアの将来像を考える会座長も務める。代表編著に『地域づくり新戦略』『メディアの地域貢献』『メディアの将来像を探る』(いずれも一藝社刊)など。