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鳥越 皓之(とりごえ・ひろゆき)早稲田大学人間科学学術院教授 略歴はこちらから

日本人の信仰心は“楽観的”?
――古くから伝わる民間信仰の文化

鳥越 皓之/早稲田大学人間科学学術院教授

 お正月に初詣に行った人は少なくないだろう。私が住んでいる地域の小さな神社にも長蛇の列ができ、その列は神社の境内から路上にはみ出していた。その長蛇の列は高齢者ばかりというものでもなく、子どもから若夫婦、中年、そして高齢者と偏りのない分布を示していた。この光景にも示されているように、民間信仰には衰退の兆しがない。

おみくじとお火炊き
正月におみくじで一年の運勢を占う。若い女性の間で人気がある。お火炊きは家内安全、商売繁盛などを願う。ともに新年の行事。

 初詣で人びとは、新しい一年の幸せを祈る。もちろん、入試に合格するというような個別のお願いをする人もいる。そしてこうした“大きなお願い”をする割には、投げ入れる金額はとても小さくて50円が平均である。これはどう考えても等価交換とは見なせないから、合理的に考える人は、これでは神さまはまじめに聞き入れないだろうと判断するに違いない。

 けれども、私たちは神社で手を合わせ、家族の無事や友人の幸せを祈って、なにかよいことをした気持ちになったりする。そして、もしかしたら、神さまは願いを聞き入れてくれるかもしれないと楽天的に考えるのである。この「なにかよいことをした」と「楽天的」というのが、日本の民間信仰を理解するキーとなる。

 日本の民間信仰は、伝統的には、個人の信仰というよりも共同体の信仰であった。現在でも天皇は皇居で田植えをしているが、これは共同体の長(この場合の共同体は日本)として、稲の豊作を祈願する儀式である。稲と関わって言えば、灌漑設備が不十分な昔は、必要な水が確保できそうにない年には、雨乞いのために天皇が吉野山などに使者を遣わしていた。

 日本史でも教わったと思うが、古来、仏教に深く帰依した天皇が幾人かおられた。この仏教信者の天皇も、雨乞いや秋の収穫祭(新嘗祭)などの共同体の行事をキチンと遂行していたのである。そこに本人も周りの人たちも矛盾を感じなかった。なぜなら、仏教は個人の信仰であり、民間信仰は共同体の信仰であったからである。共同体の長は、長としてそれを行わなければ、長である意味を失うのである。しかし、それと個人の信仰とは異なる。一方、仏教徒であってキリスト教徒というのは成り立たない。それらはともに個人の信仰であるからである。

 このように日本の民間信仰は共同体の信仰であり、共同体のメンバーの“みんな”が幸せ(豊穣や長生き)になるようにと、“みんな”で祈るのが本来である。ある段階で専門の神官が登場し、行事を差配した(ある意味で天皇も神官の性格を具備している)が、ともあれ、原則はこの“みんな”が“みんな”のために、神さまに祈り願ったのである。そして、それが「なにかよいこと」であったのである。

 実は日本の神さまは火の神や水の神のような自然神もあるが、基本は先祖神である。いわゆる氏神である。おじいちゃんやおばあちゃんが亡くなると、みんなが祈り、祈りを通じて魂が浄化され、それが歳月を経て神に昇華していくと信じられていた。祈れば祈るほど、浄化され神さまに近づいていくのである。したがって、亡くなった魂が悪いことをしようとしても、祈られれば、悪鬼や幽霊にとどまれなくて神になってしまうという原理である。

七五三
七五三は3歳の女児、5歳の男児、7歳の女児に晴着を着せて神社に詣る都市の習俗。近代に入ってからできたとても新しい民間信仰で、デパートの戦略であったという説がある。

 この原理があるため、先祖神はとても大きな特徴をもっていることになる。子孫に対して悪いことは絶対にしないのである。ある高校生が大学受験をするからと、親と一緒に神さま(亡くなってさほど歳月を経ていないおじいさんの位牌に向かってでもよい)に祈ったとして、この神さま(おじいさん)が、「よいことを聞いた。この高校生は日頃から気に入らなかったから落としてやろう」というようなことは、絶対にしない。先祖神は神さまの立場からすると、ある意味で不便な神で、いつも祈られているので良いことの方向にしかベクトルは向いていないのである。悪いことをする機能をもっていないのだ。

 歴史的に有名な例でいえば、菅原道真が亡くなった後、政敵の病死や天変地異などが生じて、これは道真の祟りと信じられた。そこでときの政権は太宰府に天満宮という神社をつくり、道真をまつった。神社がつくられると人びとが拝みつづけることになり、道真は志と異なり、神となってしまって、よいことだけをすることになるのである。

 つまりは日本の神は悪いことができない神であって、怖くない神であり、外国の神さまに比べると、気楽につきあえる神なのである。とても楽天的な発想だといえよう。

 こうした、どんな魂でもみんなが祈ればよい神になるという日本的な信仰は、いま国際的には深刻な軋轢を生じさせてもいる。中国では死者の棺のフタを閉じたところで、その人の評価が定まり、良い人は永遠に良い人、悪人は永遠に悪い人となる。したがって、靖国神社へお参りに行くということは、その“悪い人”(戦争遂行者)を是認しているのだと認識してしまう。けれども日本では、どのような魂に対してもみんなが祈るべきであり、そうすれば良い神になるという信仰が基本にある。そのために中国人の苛立ちを理解できないのである。中国と日本との相互理解のためには、この原理に自覚的である必要がある。

鳥越 皓之(とりごえ・ひろゆき)/早稲田大学人間科学学術院教授

【略歴】
東京教育大学文学部史学科卒業、同大学大学院博士課程単位取得退学。文学博士(筑波大学)、関西学院大学社会学部教授、筑波大学大学院人文社会科学研究科教授を経て、2005年から本学教授。日本社会学会会長、日本生活文化史学会会長。専門は環境社会学、民俗学。『琉球国の滅亡とハワイ移民』(吉川弘文館、2013)、『水と日本人』(岩波書店、2012)、『環境社会学』(東京大学出版会、2004)、『花をたずねて吉野山』(集英社、2003)、『柳田民俗学のフィロソフィー』(東京大学出版会、2002)、『地域自治会の研究』(ミネルヴァ書房、1994)など。