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有馬 哲夫(ありま・てつお)/早稲田大学社会科学学術院教授  略歴はこちらから

プロパガンダ・リテラシーのすすめ

有馬 哲夫/早稲田大学社会科学学術院教授

 アメリカ合衆国(以下アメリカとする)の首都ワシントンDCにダック・ツアーなるものがある。水陸両用艇に観光客をのせてパトマック川の両岸またがる観光スポットを巡るものだが、国務省の前に差し掛かると、ガイドはお客に次のようなクイズを出す。「あちらに見えるのはVOA(Voice of America)です。この放送網は世界各国に向けて放送を行っています。ただ一つの国だけ、放送していない国があります。どの国でしょうか」このツアーに参加していた筆者は、真っ先に手をあげて「それはアメリカです」と答えた。ガイドは苦虫をつぶしたような顔になった。

 アメリカ政府は自国民に対してプロパガンダを行わない。選挙などの手段によって国民が代表を選び、政府をつくるのだから、国民にプロパガンダを行って、判断を誤らせるようなことがあってはならない。これは民主主義の基本だ。民主主義でない国、たとえば、中国や北朝鮮は、国民にプロパガンダを行う。

 しかしながら、その民主主義国家アメリカも、他国にはプロパガンダを行っている。同盟国であっても例外ではない。映画、テレビ番組、音楽、ファッションなどで強力な影響力を世界に振っているソフトパワー大国のアメリカは、それらを最大限に活用しているプロパガンダ大国でもある。そのことを私が知っていると気付いたのでガイドは不機嫌になったのだろう。

情報社会におけるプロパガンダ

 現代は高度情報化時代である。情報の量は算術級数的ではなく幾何級数的に増えている。人々は情報が増えるのは無条件にいいことだと思っている。その情報が、バイアスも偽りもなく、受け手の健全な判断に役立つものであれば、その通りである。ところが、情報が増えれば増えるほど、バイアスがかかった偽情報が多くなる。とくに、国境がないインターネットのサイトは、関連情報などを追っていくと、気づかないうちに各国がプロパガンダを目的として設けているサイトに入り込んでしまう。

 受け手の方は、面白くて役に立つ情報だと思っているのだが、送り手の側は誤った考えやイメージを植え付けるためわざわざ日本語にしている。手間がかかっても、お金がかかっても必要だからだ。資本金が数億円の企業ですら広報とCMに大金をかけるのだから、大国ともなれば、エリートを集めて、強力な国家機関を設けて、そこに巨額の予算を投入して、他国にプロパガンダを行うのは当然のことだ。

 このようなプロパガンダ機関としては前述のVOAがあげられる。そのモデルは、実は、イギリスのBBCである。この放送網は公共放送というイメージが強いが、とくに戦争中は、プロパガンダを行ってきた。といっても、非民主主義国と違って、デマを流すとか、あからさまに自国を賛美したり、敵対国を中傷したりはしない。あくまでも事実に基づくニュースなのだが、自国に都合がよく敵対国に都合が悪い事実だけを巧みに、継続的に流すので、きわめて大きな効果をあげる。

メディアの責任

 中国は自国民にプロパガンダを行う非民主主義国なのだから、たとえば中央電視台(国営ではなく共産党営メディア)のニュースも、国内向け海外向けを問わず、プロパガンダである。そして、いかにもプロパガンダだとわかる表現をする。問題は、日本のメディアが、紹介や引用だとして、実に頻繁にニュースに取り上げることだ。いかに稚拙なプロパガンダであっても、何度も繰り返し、目に入れ、耳に入れるならば、それなりの効果を持ってしまう。この点に関して、日本のメディアは無神経で無責任である。

 国際法に違反し、南シナ海のサンゴ礁を埋め立て、軍事基地を建設し、この地域の軍事的緊張を一方的に高めている中国が、日本に対して「歴史問題」を持ち出すならば、それは歴史ではなくプロパガンダの問題だ。日ソ中立条約を一方的に破り、満州侵攻の死者約34万人、シベリア抑留の死者約6万人に責任を負うロシアが、原爆投下直後の映像を日本に提供するのは、自国の大罪から目をそらすために、アメリカの罪に目を向けさせようというプロパガンダ以外のなにものでもない。ところが一部のメディアは、こういったプロパガンダを不自然なまでに詳細に解説している。

自己防衛も必要

 大国は自国機関を通じてのみプロパガンダを行っているのではない。各国の、とりわけターゲット国の、マスメディアに浸透することによっても目的を達成しようとする。日露戦争後のポーツマス講和会議で、ロシアがアメリカの現地新聞を味方につけ、「日本は金を取るためにロシアに戦争をしかけた」という旨の記事を書かせ、日本がロシアから賠償金を取れなくした例は有名だ。また、1970年代にソ連のKGB将校スタニスラフ・レフチェンコが、日本の大手メディアの幹部に多数の協力者を獲得して、ソ連の文化・経済交流活動を好意的に取り上げるよう働きかけた例もある。これらは、たまたま表面化した例にすぎない。

 メディア・リテラシーの必要性が叫ばれて久しいが、高度情報化社会に生きている私たちは、今、それとはまた別のプロパガンダ・リテラシーを必要としている。

有馬 哲夫(ありま・てつお)/早稲田大学社会科学学術院教授

1953年青森県生まれ。東北大学大学院文学研究科博士後期課程満期退学。東北大学大学院国際文化研究科助教授を経て、1999年から現職。専門はメディア史・占領期史。『歴史問題の正解』(新潮新書)、『「スイス諜報網」の日米終戦工作』(新潮選書)、『こうしてテレビは始まった』(ミネルヴァ書房)など著書多数。