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山田 真茂留(やまだ・まもる)/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

暴走する集団・組織の怪――個人化する社会で求められる「集合的アイデンティティ」

山田 真茂留/早稲田大学文学学術院教授

集団・組織の魔力

 表沙汰になったときには悲惨極まりない状況になっているドメスティック・バイオレンス(DV)や、小学校・中学校で繰り返される陰湿なイジメ、あるいはブラック企業で連日強要される凄まじい過重労働など、主として集団・組織現象の病理に起因する社会問題は少なくない。もちろんそこには“犯人”の特異な性格が相当に効いているだろうけれど、しかしその人物も当の集団的・組織的文脈にはまりこんでいなかったなら、悪辣な“犯行”を行うまでには至らなかったかもしれない。いや問題は、そうした病理的な行為の連鎖がなかなか“犯罪”として認識されず、むしろその場の集団的・組織的状況次第で当たり前の自然な出来事として捉えられがちだということである。

 さらに、逸脱的な振る舞いに傾きがちな人たちだけでなく、ごく普通の人々も、特定の集団的・組織的状況にはまってしまえば、普段では考えられないような行動に出る可能性がある。暗室内で光点の移動距離を判断する際、一人であればごく短い距離を答えるはずのところ、先にいた人(たち)が法外に大きめな数値を回答すると、それにつられて元々思っていたのよりも長い距離を口にしてしまうということ。あるいは、記憶と学習の研究のために重要な実験だと再三言われてしまえば、先生役に当たった人は生徒役の人に体罰として相当な電気ショックを与えるに至るということ。こうした傾向はいずれも社会心理学の古典的な実験で確かめられているところである。

日本的集団主義の現在

 このような集合的状況のはらむ甚大な効果は世界中で確認されているので、DVやイジメやブラック企業などに見られる集団病理・組織病理は、何も日本社会だけに際立ったものとは言えない。また、従来日本的集団主義と言われてきたものは、実はナマのままでの自集団中心主義の暴発を抑制するメカニズムを具備していた、ということにも注意が必要だ。“集団主義の社会”が一つのまとまった“社会”として成立するためには、個々の集団への志向の強さだけでなく、諸々の集団間の軋轢や紛争を調整する社会的な装置が必要となる。それが日本的な状況志向にほかならない。個人間だけでなく集団間の関係にも、こまやかな気づかいをするということ。そして時宜に応じて自集団への強い志向を解除することで、内部の諸個人の多様性を十分に活かし、また外部の諸集団との間で意味のある協働を行うということ。こうした配慮の集積によって、それぞれの集団が強いアイデンティティを誇っていながらも、成員個々人の自律性や、より広い公共性への志向が損なわれない独特の社会状態が可能となる。

 ところが今、まさにこの日本的な状況志向が危機に瀕している。DV家庭もイジメ集団もブラックな職場も、当の集団が自らを取り巻く諸々の集団や組織や制度の状況に対する配慮を著しく欠き、言わば集合的な引きこもり状態になったところで暴走を始める。そこで顕在化しているのは、剥き出しの自集団中心主義の病理ということになろう。

 いや、現代日本ではとくに若者を中心に“空気を読む”姿勢が浸透しており、それなりに状況志向が横溢しているのではないか、と見る向きもあるかもしれない。しかしこの“空気を読む”志向は、個人間や集団間の関係を有意に調停する古典的な状況志向とは似ても似つかぬものだ。かつて筆者は日本的な状況志向のうちに、古典的な“場をわきまえる”志向と今日的な“空気を読む”志向の2つを区別したことがある〔表1〕。後者において関係性や集合体に関わる慣行やルールは端的に無視され、その場の集合的な気分だけが支配的になる。しかもその集合的な気分はその場限りのものであり、行為を統御する持続的な礎になることはない。そしてそうしたところで露わになるのは、偉そうな人々の恣意的な態度だけだ。

表1.状況志向の2様態

  場・状況 関係性・集合体ルール
場をわきまえる 固定的 あり(あるいは堅固)
空気を読む 流動的 なし(あるいは柔軟)

出典:山田真茂留『〈普通〉という希望』青弓社、2009年、p.117.

 DV家庭やイジメ集団やブラックな職場の中心にいる人たちは(そして往々にしてそのフォロワーたちも)、たしかに空気は読んでいる。しかしけっして場を――つまりは家族・学校・企業での普通の振る舞い方を――わきまえてはいない。彼らの呈する集団志向は、周りへの配慮がなく、より広い社会性や公共性に向かう回路が閉ざされているという点で、(悪い意味で)より純粋化し先鋭化した集団主義と言えるかもしれない。

希求される集合的アイデンティティ

 現代日本の若者は他者志向が非常に強く、たくさんの友人を持ち、SNSでの反応に一喜一憂するといったことがよく言われる。ならば、個人間や集団間に温かい関係がもたらされるかと言うと、なかなかそうはなっていないようだ。高校生を対象として実施された、ある意識調査のデータを見てみよう〔表2・表3〕。複数回答の形式で友だちとはどういう人か尋ねたところ、「クラスメイト」と答えた生徒が3人に2人おり、「顔見知り」とした人さえ3人に1人もいたということは、友人なるものがそれほど厚みのある存在としては捉えられていない実態を端的に指し示している。また、3人に2人が「友人といるより1人でいる方が落ち着く」とし、3人に1人が「親友でも本当に信用することはできない」と回答していることからも、今日的な若者が一般に、それなりに強い友人志向を呈しているように見えながら、その実、相当に個人化した生を生きているという実状がうかがわれよう。

表2.友人の定義(複数回答)

クラスメイト 67.0%
顔見知り 33.1%

出典:小藪明生・山田真茂留「若者的コミュニケーションの現在」友枝敏雄(編)『リスク社会を生きる若者たち』大阪大学出版会、2015年、p.69.

表3.個人化志向の増大

  2007年 2013年
友人といるより
1人でいる方が落ち着く
54.8% 65.6%
親友でも本当に
信用することはできない
28.7% 36.6%

出典:同上、p.64.

 そして、このように関係性がある意味でかなり稀薄化しているなか、上で述べたような純粋化し先鋭化した集団主義は、人々に得難い集合的連帯の感覚をもたらすことになる。ちなみにこれもまた日本だけに限られたことでは(また若者限定のことでも)なさそうだ。個人化が極度に進展するなかで、かえって集合的アイデンティティが強く希求されるというのは、先進諸国の多くの世代の人々に共通した性向なのかもしれない。ストリートにたむろする逸脱的な集団も、守衛に警護され柵で囲われた高級住宅地としてのゲイティド・コミュニティに住まう大金持ちたちも、国際的なテロリスト集団も、過激な宗派も、極端な国家も、いずれも剥き出しの自集団中心主義の様相を呈しているという点では共通している。

 というわけで、個人的ないし関係的寂しさを紛らすという理由で安易に集合的アイデンティティに身を投じたりはしないというのは、集団的・組織的な病理を避ける有効な予防策の一つとなろう。ただしここで集団的なもの、組織的なものの全てを忌避してしまうのは現実的ではないし、また望ましくもない。集団や組織の力は非常に大きく、それは腕力や知力と同様、使い方によっては人類社会を害する方向にも、これを益する方向にも作用し得る。重要なのは集団や組織について真剣に考えを巡らし、そのネガティブな側面を極力抑え、そしてポジティブな側面を出来るだけ伸ばすべく努めることであろう。

山田 真茂留(やまだ・まもる)/早稲田大学文学学術院教授

【略歴】
1962年生まれ。東京大学助手、東京外国語大学専任講師・助教授、立教大学助教授を経て、2003年より早稲田大学教授。

【主著】
『制度と文化――組織を動かす見えない力』(共著)日本経済新聞社,2004年
『信頼社会のゆくえ――価値観調査に見る日本人の自画像』(共編著)ハーベスト社,2007年
『Do!ソシオロジー――現代日本を社会学で診る』(共編著)有斐閣,2007年
『〈普通〉という希望』青弓社,2009年
『非日常性の社会学』学文社,2010年
『本を生みだす力――学術出版の組織アイデンティティ』(共著)新曜社,2011年
『21 世紀社会とは何か――「現代社会学」入門』(共編著)恒星社厚生閣,2014年
『集団と組織の社会学』〔仮題〕世界思想社,2017年(刊行予定)