早稲田大学の教育・研究・文化を発信 WASEDA ONLINE

RSS

YOMIURI ONLINE

ホーム > 研究力 > 知の共創―研究者プロファイル―

研究力

▼知の共創―研究者プロファイル―

安藤 紘平(あんどう・こうへい) 早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授 略歴はこちらから

映画人の杜、早稲田で新たな映画人育成に取り組む

安藤 紘平/早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授

撮影所というシステムの終焉

 2004年、TBSの社員として、映像作家としての30年余りの活動に一区切りをつけて、母校である本学に教授として着任しました。早稲田が映画人育成のプログラムに本格的に取り組むことになり、大先輩である篠田正浩監督の勧めもあって、その旗振り役を担うことになったからです。

じつは早稲田大学というのは、映画人が多数輩出している学校として日本でも随一の存在です。日本映画監督協会には、現在500数十名の会員がいますが、そのうち本学出身者は180名ほども占めます――もちろん中退者も含めてですが(笑)。名匠といわれる監督の中にも、小林正樹、今村昌平、篠田正浩、小栗康平、是枝裕和…、枚挙にいとまがありません。さらに脚本家となると、早稲田人の割合はもっと高いと思います。

 昔の映画人たちは、決して映画の専門教育を受けているわけではなくて、映画会社の撮影所の現場でもっぱら鍛えられ育てられてきました。ところがテレビの時代の趨勢とともにかつての華やかな映画産業は衰退し、撮影所というシステムは徐々に崩壊してきて、いまやほとんど機能していません。じゃあ次の時代に一体どこで映画人を育てるんだという話になったときに、「早稲田がやらなくてどこがやる」という気運が、ほかならぬ映画人の中で高まってきたのです。

 デジタル化という時代の流れもあり、最先端技術を駆使した映画・映像制作の拠点が必要だという篠田正浩監督らの提唱を受けて、2001年、本庄キャンパス内に、現在の芸術科学センターの前身である本庄情報通信研究開発支援センター(通信・放送機構)が設立されました。ここで、篠田監督の『スパイ・ゾルゲ』、樋口真嗣監督の『ローレライ』『日本沈没』をはじめ、多数の劇場上映作品が制作されてきました。

 これらを利用して、プロの映画制作現場を大学内へ持ち込んでの実践的研修や、映画制作の巨匠たちに教壇に立ってもらっての講義など、他大学ではまねのできないようなユニークなプログラムをただちに構成することができました。

本庄芸術科学センターでの撮影『ローレライ』

本庄キャンパスでの撮影風景 『日本沈没』

予備軍はオール早稲田の学生5万人

 新しいプログラムでは、あえて映画・映像学部などと名前のつく独立した学部や学科を設置せず、広く全学の学生を対象にプログラム(*)を提供していくかたちを選択しました。映画監督なんて、1万人に1人出るか出ないかです。とすれば、たかだか定員200人の映画専攻を作るより、早稲田だったら5万人の学生全員を対象にして、その中から才能ある人を掘り起こした方がいいに決まっています。
(*正式名称:「映画・映像制作人材育成の新教育システム」によるテーマスタディ「映画・映像」)

 本学のオープン教育センターでは、どの学部のどんな専攻の学生でも、副専攻として履修することができるテーマスタディという仕組みを提供しています。このテーマスタディを通じて本格的に映像に関心を持ったら、テレビ局や映画会社に就職するもよし、大学院に進学して掘り下げて映画を学ぶもよし、そんな自由な道を用意するほうが、早稲田らしいと思いました。

 「映画のすべて:マスターズ・オブ・シネマ」というプログラムでは、篠田正浩さん、山田洋次さんはじめ、錚々たる方々に講師として来ていただき、プロの映画作りの舞台裏を話していただいています。これはもう凄い人気です。「なんか有名な監督が講義に来るらしいぞ」とか「講義で毎回映画が見られるらしいぞ」なんていうミーハーな動機でもおおいに結構、映画の良き理解者、質の高い映画ファンを増やすことも、大切な目的の1つです。

 「京都・太秦スタジオと日本映画」というプログラムでは、5日間の現地合宿を行い、伝統的な撮影所の職人さんたちとの対話の中で、映画制作のノウハウや現場の機微のようなものを学びます。伝統・伝承の技術を次の世代が受け継ぐこと、少なくともその存在やその精神を、若い世代も知っておくことが絶対に必要です。デジタルを学ぶには、アナログを理解することが必要ということです。

「マスターズ・オブ・シネマ」久石譲さんの講演風景

「京都・太秦スタジオと日本映画」研修風景

電子映像と映画の融合を先駆ける

 映画監督というのは、あれこれ考えたり迷ったり寄り道したりし尽したうえで、ようやく真剣に「なってみようか」と考える、そういう職業じゃないかと思います。私自身、高校時代は文学にも興味を持ちつつ、迷いに迷って理工学部に進学し、その後も芝居を見たり映画を見たり、ふらふらした末に、「映画作るのっておもしろそうだな」とようやく思ったのは、学部4年生の頃です。

 学生時代、ユネスコの交換留学生として、パリの大学に留学していたんですが、芝居や映画ばかり見ていました。帰国してまもなく、早稲田の先輩寺山修司さんの劇団「天井桟敷」の舞台を手伝うことになりました。天井桟敷といえば日本のアングラ劇の中心的存在でとても刺激的でしたし、寺山さんとの出会いが今の私を作ったと言っても過言ではありません。

 大学を卒業してTBSに入社したものの、入社1年目の見習い期間中に3ヵ月の長期休暇を取って、天井桟敷のヨーロッパ公演についていっちゃったんです(笑)。これは間違いなくクビだと思っていたんですが、「こういう変わったやつも居ていいだろう」ということで、気がついたら60歳まで勤めていたわけですから、今考えれば、ほんとうに度量の大きな会社です。

 そのころ、寺山さんの勧めもあって16ミリカメラで映像を撮り始め、1969年の『オー・マイ・マザー』という作品が、ドイツのオーバーハウゼン国際短編映画祭で入選しました。これは日本で最初の電子映像を使った映画作品でしょうね。今で言う、デジタル映画の元祖みたいなものです。その後、何本か撮る映画が、国際映画祭で賞をいただいて、映像作家としても活動できるようになりました。

 当時のTBS社員には、萩本晴彦さんとか、久世光彦さんとか、作家肌のプロデューサーやディレクターがいて、みんな自由人のように振る舞っていた。そんな中で私も、会社の仕事とは関係なく自分の映画を創ったり、コマーシャルフィルムなんかもたくさん演出しました。そういう自由が許される時代でもあったし、それが我々にとっての映像制作の学校であり、表現の場だったんですね。

 そうこうするうちに、ハイビジョンが世の中に出て来て、それを使った映画作品を数多く撮るようになり、いつのまにかデジタルを扱うことが多くなりました。いまや、デジタル映像を映画に取り込むことはあたりまえで、デジタル技術なしに映画制作はありえないという時代にまでなっています。

安藤紘平監督『アインシュタインは黄昏の向こうからやってくる』(ハワイ国際映画祭 シルバーアウォード 他)

安藤紘平監督『フェルメールの囁き』(モントルー国際映画祭 グランプリ 他)

産学連携でハリウッドに挑む

 最近の若い人たちは、現場である程度の撮影ができれば、「あとはデジタルで処理しますから」と切り上げてしまいがちですが、昔ながらの現場スタッフからは、「いやまだまだ」とダメ出しが出ます。なぜかというと、やはりアナログでしか絶対に出せない映像や音声の表現が、厳然としてあるからです。樋口真嗣監督などは、新作『隠し砦の三悪人』にしても、本庄の芸術科学センターのデジタル技術をフルに使って映像を合成していますが、要所要所できわめてアナログ的なものをきちんと取り入れています。このセンスがなければ、いくらデジタルの技術が得意でもだめなんですね。

 結局、デジタル技術だけの勝負になったら、とてもじゃないけれど海外の映画に勝てない。ハリウッドの映画制作と日本の映画制作では、かけられる予算が1桁も2桁も違います。芸術科学センターのような産学連携の映像制作拠点を設立した背景には、そういう事情もあります。市場規模、予算条件の違いを超えて世界レベルの作品を創っていくには、日本の映画産業は互いに連携して、限られたリソースを徹底的に活用して、束になってかかっていくしかありません。

 芸術科学センターでは現在、東宝の撮影所をはじめ、CG制作会社、現像所、プロダクションなどと、デジタル回線でネットワークを結んでいます。たとえば、今日撮影所で撮ったフィルムを、今晩中には芸術科学センターへ送って、翌日スタッフがチェックしてOKだったらすぐにデジタル処理の作業に取りかかる、だめなら現場へ連絡してすぐに撮り直してもらう、そういう連携作業を、設備やスタッフの空いている時間をうまく調整しながら回していく。ハリウッドが50億円かけるところに日本が1億円しかかけられないのだったら、その1億円を、技術とネットワークと連携で20億円分くらいの価値まで持っていこうという気概で取り組んでいます。

 どうも最近忙しすぎて、自分の作品を撮る暇がまったくなくて…(笑)。これからも作品は創っていきたいし、本も出したいと思っています。自分の本ではないのですが、今年は『Screenplay』という、シド・フィールドという脚本家が書いた、脚本づくりのバイブルのような本の邦訳を出す予定です。

安藤 紘平(あんどう・こうへい)/早稲田大学大学院国際情報通信研究科教授

1968年、早稲田大学理工学部卒業。同年TBS入社、事業局・メディア推進局局次長などを経て、2004年退職。2003年、早稲田大学客員教授を経て、2004年から現職。日本映画監督協会理事。大学在学中から劇団天井桟敷に所属、映像作家として活動。1970年、電子映像を使った日本初のフィルム『オー・マイ・マザー』でオーバーハウゼン国際短編映画祭入選、同作品は米国ゲッティ美術館、横浜美術館などに収蔵。1994年、ハイビジョン撮影を35ミリフィルムに変換した『アインシュタインは黄昏の向こうからやってくる』で、ハワイ国際映画祭銀賞特別賞、国際エレクトロニックシネマフェスティバル・アストロラビウム賞を受賞。その他、作品、受賞歴多数。デジタル、ハイビジョンに先鞭をつけた映画作家として世界的に著名であり、2001年にはパリで安藤紘平回顧展が開催された。

WASEDA早稲田大学研究推進部 http://www.waseda.jp/rps/