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研究力

▼知の共創―研究者プロファイル―

堀江 敏幸 略歴はこちらから

小説とも随筆ともつかない――
ただ自分の書きたい文章を綴る

堀江 敏幸
早稲田大学文学学術院教授/作家

「流れのまま」に生きてきて

 言葉は悪いかもしれませんが、ずっと流れのままに生きてきました。自分の書きたい文章を自分の好きなペースで書いてきて、いつのまにか作家といわれるようになっていました。けれど、自分からそうなりたいと思ったことは一度もありませんし、そうなるためにどこかに働きかけるといったことも、一切してきませんでした。

 高校生のときに本を読むのが好きになり、日本の古典に興味をもって国文科があるところを受験し、早稲田の第一文学部に入りました。第二外国語でたまたまフランス語を履修して、辞書片手に奮闘しているうちに、せっかく始めたのだからしっかり読めるようになりたいと思うようになり、路線変更して仏文専攻に進むことにしたのです。当時、古本屋に行っては安価なフランス語の小説や随筆を買って、一生懸命読んでいましたが、こういうものを読みこなせるだけの語学力が身につけば、楽しく生きていけるのではないかと、漠然と考えていましたね。

 卒業論文では、マルグリット・ユルスナールという女性作家の初期作品を扱いました。卒業するとき、指導教員だった江中直紀先生(現・早稲田大学文学学術院教授)に、これを雑誌「早稲田文学」に投稿してみなさいといわれて、短い文芸批評のようなエッセイのような文章に書き直して編集部に出してみたところ、運よく掲載されたんです。活字になった自分の文章を見たときは、とてもうれしかったですね。書いたものをどこかへ投稿しようなんてことは、まったく考えていませんでしたから、背中を押してくださった江中先生には、本当に感謝しています。

2000年に出版された散文集『書かれる手』。雑誌「早稲田文学」に掲載された初めての文章(「書かれる手―マルグリット・ユルスナール論」)が冒頭に収められている

 大学院は、東京大学に進みました。東大にはいわゆる研究室制度がなくて、基本的に学生は自分で勉強して、自分でテーマを決めて論文を書くんです。論文審査のとき、最も専門分野の近い先生が主査になるという、ある意味で、完全に自由放任の教育でした。あまり縛られずに、自由にやれるというところが、自分の性格には合っていると思ったのです。ところが、それで楽をして好きな本ばかり読んでいるうち、まわりの学生たちがみな留学の準備をしていることに気づいたんですね。フランス政府給費留学生と呼ばれる制度がありまして、当時、この試験にはそれなりの権威があったんです。フランス文学者としての将来を考えるなら、ぜひとも合格しておかなければならない、と言われているものでした。

 そのために、前もって自腹でフランス留学して、この試験のためだけに帰国する学生がいたくらいなんです。

 マイペースにかまえていた自分も、さすがに愕然としました。大学院生活はもう少し続けたいし、フランスにも行ってみたい、それにお金もないから、給費をもらうしかないと腹をくくって、半年間ほど必死で勉強した。なんとか合格して、博士課程にも進学し、休学した上で、パリに留学しました。

 その頃、フランスの現代小説をたくさん読んでいたんですが、街の描写などが出てきても、写真や地図を見ただけではなかなかイメージできない。ともかく現地に行って、小説に出てくる地理や季節の感覚を実体験してみたかったんです。少なくとも、一年間暮らしてみて、季節をひととおり体験してみたいと思っていました。

 モノの値段とか、生活用品の名前などは、辞書に載っていません。だから、よくスーパーマーケットへ行っては、あれこれ眺めていました。読書だけでなく、翻訳をするとき、こういう些末な知識がとても役に立つんです。結局、ふつうの学生らしいこと、例えばアカデミックな論文を書いたりはしないで、ただぼんやりと好きな本を読んだり、街をぶらぶらしたりして、3年間過ごしました。

必要としてくれる人がいるから書く

1995年初版の『郊外へ』。作家としてのデビュー作である

 帰国後すぐ、大学院は中退しました。20代の終わりの頃は、非常勤で大学の第二外国語担当教員をやりながら、なかばフリーターのような生活をしていましたが、その後、幸運なことに常勤のポストを得たので、引き続き第二外国語の教員として働きながら、まずは翻訳をやったんです。それと並行して、現代フランス文学の紹介記事などを、依頼されて書くようになりました。

 「ふらんす」という語学雑誌に、連載を持ったのもこの頃のことです。何を書いてもいいよと言われて、当時日本ではあまり紹介されていなかった、パリ郊外の生活を描いた小説を紹介しました。日本人が雑誌を通して憧れているような、華やかな「パリ」ではない、新興住宅地が開発されたり、移民や低所得者の住区があったり、暴動が起きたりしている、パリの周縁の文化が描かれているような小説をめぐっての、書評のようなエッセイのような、よくわからない文章です。

 このときの連載は、『郊外へ』というタイトルで本にまとめられて出版されました。すでに翻訳書はあったのですが、自著は初めてです。幸いなことに、この本があちこちの編集者の目にとまったらしく、「ちょっと書いてみませんか」と話をもらうようになり、書く機会、発表する機会が広がっていきました。

 しかしながら、どの文章も編集者の方からの依頼があって書いたもので、自分から「こういう構想があるから書かせてくれ」と頼んだりしたことは一遍もないんです。もし依頼がなかったら、たぶんなにも書いていなかっただろうなと思います。というか、書ける時期が来るまで、もっと長く、慎重に待っただろうと思いますね。ひどく受け身のように見えますが、「必要としてくれる人がいるから書く」というのが、現在までの、一貫した自分のスタンスなんです。

『おばらばん』(1998)で三島由紀夫賞、『熊の敷石』(2001)で芥川賞を受賞。その後も、川端康成文学賞、木山捷平文学賞、谷崎潤一郎賞、読売文学賞と、名だたる賞を受賞してきた

 いくつかの作品で賞をいただいたりもしましたが、「あまりうれしそうな顔をしていない」とよく言われるんです(笑)。自作が文学賞に値するかどうか判断することはできませんし、戸惑いの方が先に立つんですね。選んでくださった審査員の方々にしてみれば、僕のようにどのジャンルにもカテゴライズできない文章を書く人間に賞を与えるのは、苦渋の選択だったでしょう。それでうれしそうに見えないとなると、きっと腹も立っただろうと思います(笑)。

 学会にも、作家の集まりにも所属しないで、ひとりで細々と書いてきたのですが、それがつづいているのは、受け身の仕事を重ねるうちに、出すべきときに出せる力が蓄積されてきたからだと考えています。そこしかないというタイミングで、力が出せるようになってきた。もっと大きいのは、そういう仕事のペースを理解してくれる編集者に恵まれたことです。

 ぼくの関心は、「何を書くか」ではなくて、「いかに書くか」にあります。もちろん、自分にとって大切な主題はあるでしょう。しかし、それは書いているうちにわかってくるもので、最初から明確にあるものではないんです。だから、極端なことを言えば、題材や舞台はなんでもいい。もし南極について書いてくれと言われて、タイミングが合えば、書くかもしれません。これは小説だとか、これはエッセイだと分類できるような形式や文体から離れて、書きたいように、思いつくままに書いているので、素材も決められないんですよ。ただ、若い頃に書いた文章を読み返してみると、「このときはこんなふうに書いていたのか」と、昔の写真を見るような新鮮な驚きを感じることがあります。「こういうふうに書こう」と作為的に書くのではなくて、ほとんど無意識のうちに書いているので、自分ではよく覚えていなかったりするんですね。時間が経つと、その無意識の部分が顕在化してくるんです。

「書ける時」を逃さず書いてほしい

 早稲田大学第一文学部・第二文学部が、文化構想学部・文学部として改編された2007年に、前者に属する文芸・ジャーナリズム論系の教授として着任しました。フランス語やフランス文学の教師ではなく、そういう言葉があるのかどうかわかりませんが、「作家ポスト」とでも言うべき枠です。いまは「書く」こと、もしくは、書くために「読む」ことを教えています。実際には、後者の比重のほうが大きいですね。若い人たちの作品を添削することは、ありません。自分自身の例を引きましたが、例えば、自分の文章を、一定の期間を置いて読み返したら、ちょっと頬が赤らむはずなんですよ(笑)。自作が客観視できるようになっているわけです。それが第一歩だと思うんです。こちらは、彼らに、自分を振り返る場と機会を与えることしかできません。

 創作実践を目指すコースですから、当然、作家になることを夢見ている学生がいます。大学で文芸創作を履修したからといって、そんなに簡単に夢がかなうはずもないのですが、大学にいるあいだは何もできず、何も分からないまま卒業してたとしても、「自分は書けない」とあきらめる必要もないんです。

文化構想学部では、同時代文学論演習(写真上)、批評・小説ゼミ(写真下)を担当

 回り道というと大げさかもしれないけれど、30歳過ぎてから、あるいは40歳、50歳になってから、ふと書きたくなるときが来るかもしれない。人によって時期は違うでしょうが、書きはじめるタイミングを逃さないでほしいと思っています。その段階で書く力があれば、書ける。書けなかったら、次の機会まで待てばいいんです。そのためには、好きな文学とのつきあいを止めないで、働きながらでも、ずっと本を読み、本好きの人たちとの対話を続けてほしい。その情熱をもち続けていれば、いつか書ける力が溜まって、書きはじめられるはずです。

 人によって、成熟の時期がちがうんですね。学生たちには、「いますぐ何かを書く必要はない。焦らずに待って、書けるときが来て、ほんとうに書けたら、それをぼくに読ませてほしい」と言っています。書きはじめることより、はじめてしまったあとで書き続けることのほうが、ずっと難しい。書かない時期、書けない時期は、続けるために必要なものなんです。

 これまで、自分は流されるままにきたと言いましたが、波をかぶっても折れたり沈んだりしなかったってことは、自分でも分かっていない不動の芯のようなもの、強いものがあるのだろうと思いますね。それが何なのかが分かるまでは、書き続けていきたい。一生分からないかもしれませんけれど――。

堀江 敏幸(ほりえ・としゆき)/早稲田大学文学学術院教授/作家

1964年岐阜県生まれ。早稲田大学第一文学部(フランス文学専修)卒業、東京大学大学院人文社会系研究科博士課程中退。その間、フランス政府給費奨学生としてパリ大3大学博士課程留学。東京工業大学講師、明治大学理工学部講師、助教授、教授を経て、2007年より現職。1995年、『郊外へ』で作家デビュー。1999年、『おぱらばん』で三島由紀夫賞。2001年、『熊の敷石』で芥川賞。2003年、「スタンス・ドット」(『雪沼とその周辺』所収)で川端康成文学賞。2004年、『雪沼とその周辺』で谷崎潤一郎賞、木山捷平文学賞。2006年、『河岸忘日抄』で読売文学賞小説賞。この他、著書・訳書多数。2002年より小林秀雄賞選考委員、2008年より野間文芸新人賞選考委員を務める。

WASEDA早稲田大学研究推進部 http://www.waseda.jp/rps/