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研究力

▼知の共創―研究者プロファイル―

ブガエワ アンナ/早稲田大学高等研究所 准教授 略歴はこちらから

アイヌ語の研究を通じて
世界の言語学の発展に貢献する

ブガエワ アンナ/早稲田大学高等研究所 准教授

漢字への憧れ、東洋への憧れ

 小さい頃から、東洋の文化や漢字への憧れがありました。生まれ育ったペテルブルグ(当時はレニングラード)に、東洋美術のコレクションが豊富なエルミタージュ美術館があったことや、母親が韓国語を専門とする言語学者で、家に漢字の本がたくさんあったことから、大きな影響を受けました。サンクト・ペテルブルグ大学東洋学部の日本語学科に進み、言語学者を目指したのは、自分にとってはごく自然な流れでした。

 ペテルブルグ大学の日本語研究には、150年以上もの歴史があります。西洋で最も古い日本語学の拠点だと思います。卒業研究では、「日本語の系統問題」というテーマに取り組みましたが、学部生にとっては大きすぎるテーマでしたね(笑)。日本語の系統を考えるうえでは、必ずアイヌ語との関係について考えなさいと指導されました。これが、アイヌ語との最初の出会いでした。その後、日本の大学院へ進むにあたり、日本語の研究も考えたのですが、より希少な言語であるアイヌ語の研究に取り組もうと考え、北海道大学大学院へ進学しました。

 世界の言語学者にとって、アイヌ語は憧れの研究テーマの1つです。なぜなら、アイヌ語がどんな語族にも属さないので、ほかの言語にない固有の特徴をいくつか有していて、言語学にとって重要な知見を発見する可能性が大きいからです。何より、消滅の危機に瀕している希少な言語だということも重要です。母親をはじめ周囲の人たちも、アイヌ語研究へ進むことに賛同してくれました。北大ではアイヌ語研究の専門家である佐藤知己先生(現・教授)に師事し、またその後、千葉大学ではポスドク研究員として、中川裕先生(現・教授)に指導いただきました。2人の日本人のアイヌ語研究者に教わったこと、そして自らフィールドに出てアイヌの母語話者の方々に直接聞き取り調査が出来たことは、本当に幸運でした。

写真1 20世紀初頭、日本政府による厳しい圧制により言語の急速な放棄が起こり、1950年代までで日常会話での使用は途絶えた。1997年になって「アイヌ文化振興法」が制定され、2008年に北海道の先住民として公式に承認されたことから、自らの文化や言語への態度の好転が見られるものの、アイヌ語は依然として消滅の危機にさらされている。

 文字を持たない口承の言語であるアイヌ語の研究において、母語話者の肉声を記録できることにはとても大きな価値があります。日本に来てまもなく、修士・博士課程に在籍していた2年間にわたって、アイヌ語南西方言の1つである千歳方言のほとんど最後と言える母語話者の方に、聞き取り調査をさせていただきました。90歳近いご高齢の女性の方で、入院されていた病院に通ってお話しをお聞きしましたが、私が訪ねるのをいつも楽しみに待っていてくださいました。

 アイヌ人は、非常にたくさんの口承文芸を残していますが、90歳になってなお、しかもアイヌ語を日常的に使わなくなってもう何十年も経つのに、いくつもの物語を滑らかに語ってくださるのには、たいへん驚かされました。アイヌの口承文芸は、言語学者の金田一京助先生らによって文字に起こされ出版もされていますが、やはり生きた本物の語りには本当に感動しました。どんなものにも命が宿り、神様(カムイ)が宿るというアニミズムの信仰が、こうした口承文芸にもよく表れています。水の神様、火の神様、あらゆる自然の神様への感謝の気持ちを持ち、自然や環境を大切にしながら暮らしてきたアイヌの人たちを尊敬します。人間的にもオープンマインドで、とても魅力的です。挨拶もボディタッチが多く、「元気でしたか」などと挨拶しながら、手を握ってさすってくださったりします。最初の2年間おつきあいしたおばあさんが亡くなったときは、本当に哀しかったです。

言語としてのアイヌ語の面白さ

 アイヌ語は、構造的に日本語とは深いレベルで異なる言語です。主語と目的語の人称によって動詞の形が変わる、日本語の「〜が」「〜を」のような格助詞がない、また時制の標識が存在せず文脈だけで分かるなど、日本語にはない特性が多くあります。逆に、アイヌ語にあって日本語にない動詞の変化もたくさんあります。

 例えば日本語にない特徴として、動詞の中に目的語の名詞句を入れ込んでしまう名詞抱合形というものがあります。「私/は/魚/を/獲った」のように、日本語では5つの単語で言わなければならないのに対して、アイヌ語では同じ内容を1つの動詞「私魚釣った」で言い表すことができます(図1参照。例 (1) が名詞抱合を含まない一般の構文、例 (2) が名詞抱合形を用いた構文)。その一方で、日本語と似ているといわれる特徴として、人魚構文といわれる体言締め文の存在があります。「〜したところ」「〜したよう」「〜したそう」「〜したつもり」といった、動詞を受けて「締め」として表す名詞が、日本語の106種類に対して数は少ないものの、約10種類ほど存在します。

図1 名詞抱合形の例文

 アイヌ語に特徴的なものとして最近注目しているのが、「証拠性」の表現です。ある発言について、その情報源がいったいどこから得られたのか、どう分かったのか、といった証拠性のカテゴリが必ず付加されるのです。例えば日本語でも「雨が降るそうだ」「雨が降りそうだ」といった動詞の変化によって証拠性を使い分けることができますが、アイヌ語ではもっと明確に、①思考上の発言:「ルウェ」(〜の跡)、②伝聞上の発言:「ハウェ」(〜の声)、③視覚上の発言:「シリ」(〜の様子)、④感覚上の発言:「フミ」(〜の音)の4つの証拠性の区別を表す名詞が義務的に付加されます(図2)。

図2 証拠性を表す4つのカテゴリと例文

 言語学の最先端の理論から習いつつ、アイヌ語のような希少言語から、こうした証拠性や動詞の態の変化についての知見を実証的に見出して、再び言語学にフィードバッグすることで、言語学の理論をさらに発展させていくことに貢献できます。これまでアイヌ語の研究や記録が、外国語に翻訳されて世界へ発信されることはほとんどなかったので、世界の言語学者からも高い関心が寄せられています。

 こうした言語の多様性を見据えて、世界中の言語の構文の可能性を探究する「言語類型論」という研究分野があります。受動態にしても証拠性にしても、ある言語ではまったくないが、ある言語ではいくつかの種類もあるといった具合に、言語はじつに多様です。しかしながら重要なことは、その組み合わせは決して無限ではないということです。人間が生み出し、使ってきた言語には、どこかに有限性の範囲があって、その限界がどこにあるかを探るのが、言語類型論の関心です。ドイツのマックス・プランク研究所(The Max Planck Institute for Evolutional Anthropology, Leipzig)が主宰する共同研究プロジェクト(図3)に参画し、アイヌ語のデータベースを構築しました。アイヌ語の知見が、これまでの構文の限界を広げた点も出てきました。

 こうした国際研究は、20年前には不可能でしたが、学問の世界がグローバル化され、デジタルとネットワークの技術が発展して、世界規模で活発に行われるようになりました。この他にも、スタンフォード大学の関係節のデータベースプロジェクトにも参画し、世界中の研究者、他言語の研究の知見から、大いに刺激を受けています。

図3 マックス・プランク研究所 デジタルライブラリに収蔵されたアイヌ語データベース
ブガエワ准教授のモットーとして、データベースはすべて母語話者が実際に用いた文章のみで構成されている。

アイヌ語の存在を世界に発信する

 現在、世界には7千ほどの言語がありますが、じつに3週間に1つのペースで消滅しています。アイヌ語も消滅の危機に瀕する言語の1つです。幸いなことに、アイヌ語は世界の希少言語の中でも、非常によく記録されている言語だと思います。日本の言語学者や民俗学者、あるいは在野の研究家の方々が、19世紀の終わり頃からこつこつテキストを収集し、音声資料もかなり残っています。金田一京助先生、千葉大学の中川裕先生、早稲田大学の田村すず子先生(現・名誉教授)などが、かなりの量のテキストを収集されています。私自身が収集したテキストの量は決して多くはないですが、やはり自分自身の目と耳で得られたデータから、言語の本当の姿が見えてくるのだと思います。

 2007年からロンドン大学が主宰する「危機言語デジタル・アーカイブ」の共同研究プロジェクトに参画し、アイヌ語のマルチメディア・アーカイブを構築してきました。これまでに中川裕先生の古いアイヌ語音声資料約10時間分と共に、母語話者の黒川セツさんから私が直接収集した、基礎単語や日常会話など約4千項目の音声資料を収載するなどしました。2010年3月からインターネットで世界中からのアクセスが可能になっています(写真2、図4)。

写真2 アイヌ語沙流方言の母語話者、黒川セツさんからの聞き取り調査風景(2008年9月)

図4 ロンドン大学「危機言語デジタル・アーカイブ」に収載されたアイヌ語アーカイブ
http://elar.soas.ac.uk/deposit/bugaeva2012ainu

 さらにこのデータベースの資料をもとに、アイヌ語・日本語・英語の約4千語句の音声付きオンライン辞書「オンラインアイヌ語会話辞典」を編纂しました(図5)。これは2008年にアイヌ人が北海道の先住民族として認められたことをきっかけに、アイヌ人コミュニティからの強い要請を受けて作成したものです。消えかかった言語がふたたび再興することはきわめて困難ですが、アイヌ人のアイデンティティの再生のためにはこうした辞典の作成は必要不可欠であると確信しています。

 これから始まる国立国語研究所の大きなプロジェクトとして、『アイヌ語ハンドブック』の責任編集の仕事があります。国内外の研究者と協力しながら編纂し、海外の有名な出版社から刊行される予定です。アイヌ語をもっともっと世界の人に知ってもらいたい。そのためにも、これからもずっと日本で研究を続けていくつもりです。

図5 オンラインアイヌ語会話辞典
http://lah.soas.ac.uk/projects/ainu/

ブガエワ アンナ(Anna Bugaeva)/早稲田大学高等研究所 准教授

ロシア、サンクト・ペテルブルグ(当時レニングラード)生まれ。1996年サンクト・ペテルブルグ大学東洋学部日本語科卒業後、日本政府(文部科学省)奨学金研究留学生として大阪外国語大学、北海道大学へ留学。2004年北海道大学大学院文学研究科より博士号(文学)授与。千葉大学文学部日本学術振興会外国人特別研究員、オーストラリアラ・トローブ大学言語類型論センター客員研究員を経て、2008年早稲田大学高等研究所 助教に着任。2011年より現職。専門は記述言語語学(アイヌ語)、言語類型論。(2012年12月より国立国語研究所 言語対照研究系 特任准教授)