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研究力

▼知の共創—研究者プロファイル—

トラン・ヴァン・トゥ/社会科学総合学術院教授 略歴はこちらから

東アジアのダイナミズムの研究から
後発国ベトナムを考える

トラン・ヴァン・トゥ/社会科学総合学術院教授

日本に腰を据えて経済学を研究

 1968年にベトナムで高校を卒業後、日本政府の国費留学生として来日したのが、人生の第1の転機でした。高校まで文学が好きで、大学では文学部に進もうと思っていたのですが、日本に来てから経済学を勉強することにしました。当時ベトナムはまだ戦争中で、近い将来に戦後経済復興が必要になるだろうと考えたこと、また日本がちょうど高度成長期のまっただ中にあり、世界第2位の経済大国になったときでもあり、日本の経済発展の経験を学ぶことに意義があると思ったからです。

 1978年に大学院博士課程を修了した後、第2の転機を迎えました。ベトナム戦争が終結して国家が再統一され、共産党の支配政権下でマルクス=レーニン主義の思想と社会主義経済システムが適用されるようになりました。資本主義国の日本で近代経済学を専攻した自分は、ベトナムではもちろん受け入れられず、ベトナムからの留学生は皆、自由のない国になったベトナムには帰らない、事実上帰れないことになり、日本に残るべきか、外国人をより柔軟に受け入れるアメリカなどに移民すべきかの選択に迫られました。仲間の大部分はアメリカ、カナダ、オーストラリアなどに続々と移りましたが、私はいろいろ考えたすえ、日本に残ることを決めました。コンサルティング企業に数年間勤務の後、日本経済研究センターの研究員となり、本格的に東アジア経済の研究を始めました。

 今振り返ってみると、私の選択は正しかったと思います。1980年前後にアジアでは日本のほかに韓国、台湾、香港、シンガポールが発展し、その後、中国やASEAN諸国も次々に発展していった。これは予想していませんでした。当時、一橋大学での恩師であった小島清先生や山澤逸平先生が故赤松要先生の体系を引き継いで、日本の産業発展の雁行形態論を研究されており注目されていました。さらに雁行形態論の発展型として、工業化が日本から韓国や台湾へ、さらにマレーシアやタイなどに波及していく過程が説明されました。

 私の研究もその流れの中に位置づけられましたが、資本や技術の移動に注目し、後発国の産業発展における資本と技術の役割を分析しました。1992年には、その学術的成果をまとめた著書『産業発展と多国籍企業:アジア太平洋のダイナミズムの実証研究』を東洋経済新報社から出版し、翌年「アジア・太平洋賞」をいただくことができました。

アジア太平洋地域に関する優れた出版物の著者に贈られる「アジア・太平洋賞」(1993年度)を受賞した著書『産業発展と多国籍企業:アジア太平洋のダイナミズムの実証研究』

ドイモイ政策から27年を経て

 戦争終結後、社会主義体制にあったベトナムは、1980年代後半まで東アジアのダイナミズムから隔離されてしまいました。1986年末にようやく社会主義体制を見直し、計画経済から市場経済への移行を推進するドイモイ(刷新)政策を導入し、それまでのマルクス経済学一辺倒の姿勢から、外国企業の投資、近代経済学者などの意見の取り入れの姿勢への大転換です。1993年に私は当時のヴォー・ヴァン・キエット首相によって設置された、行政・経済改革諮問委員会のメンバーの1人に任命されました。

『東アジア経済の構造変動とベトナムの工業化戦略』

『アジア太平洋の時代とベトナムの工業化』

 ドイモイにより幸いにも母国に貢献できる時代がやってきて、1993年以来、日本とベトナムを頻繁に行き来しながら、日本や韓国、タイなどの経験を常に念頭において、ベトナムの工業化戦略、経済政策、制度改革について提言してきました。1996年には『アジア太平洋の時代とベトナムの工業化』をベトナム語で出版し、指導者たちに贈呈しました。さらに2005年には、中国の台頭、自由貿易協定(FTA)など、東アジアの新潮流の中でベトナムの新しい発展戦略を提言するために、『東アジア経済の構造変動とベトナムの工業化戦略』をベトナム語で出版しました。

 改革から約25年で、ベトナムは世界最貧国から脱却することに成功しました。生産管理体制の改革、資本の自由化や海外への市場開放が図られたことで、農業生産や工業生産が急増し、海外から新しい経営の知識やアイデアが導入され、それまで抑制されていた経済発展の潜在的な発展可能性が勢いよく花開きました。ところが2000年代後半に入って、改革路線に深刻な停滞が懸念されるようになった。行政機構の質の低下、汚職横行、利益団体と官僚との癒着、国有企業の過大な優遇などのため、資源配分が非効率になり、憂慮すべき事態です。ドイモイから約25年、後発国として順調な経済発展を遂げてきたものの、次の段階へと飛躍できないまま、停滞に陥る可能性があります。

ベトナムにおける「中所得国の罠」

 後発国が経済発展により低所得国から中所得国へと移行した後、高所得国へと移行できずに停滞に陥るという現象は、世界中で広くみられます。例えば、南米のアルゼンチン、チリなどは、19世紀に経済発展を遂げたものの、先進国になり切れないまま今日に至っています。アジアでこれまでに先進国の仲間入りをできたのは、都市国家シンガポールは特例として、日本と、韓国、台湾の3カ国だけです。では、その他の途上国はどうなるのか——。数年前にアジア開発銀行の研究プロジェクト「2030年のASEAN」に参加したのを契機に、中所得国となったASEAN諸国が、今後の発展へ向けてどのような構造的問題を解決しなければならないのかという観点から、「中所得国の罠:ASEAN諸国の課題」という報告論文(英語)をまとめました。

 総じてASEAN諸国の所得水準は順調に上昇してきています。問題はその先です。マレーシア、タイ、中国といった高位中所得国は、上には高い経営力や技術力を有する先進国とのギャップがあり、下からは労働集約型の低位中所得国が追い上げてきており、両方からプレッシャーのかかる厳しい環境にあります。報告論文では、これらの国が先進国へ発展するために韓国の発展から学ぶべきこととして、(1)人的資源の質の高度化、(2)イノベーション志向のダイナミックで柔軟な民間企業の強化、(3)質の高いインフラの整備、の3点に整理し、高位中所得国はこれらを満たす努力をすることが必要だと提言しました。

 では、ベトナムあるいはインド、フィリピン、インドネシアといった低位中所得国はどうなのか。とりあえずこのまま高位中所得国に追随していれば、順調に所得は上昇し、スムースに高位水準になれるのか。高位水準になってから初めて、中所得国の罠の問題について考えればいいのか。ベトナム経済に焦点を合わせてこの点を掘り下げました。分析を進めるうちに、中所得国の中でも、高位の国と低位の国とでは抱える問題に構造的な違いがあること、低位中所得国にも高位水準へ移行していけない罠の危険があることが見えてきました。

トラン研究室ゼミではベトナム合宿(写真は2013年秋)を毎年実施。左はベトナムと日本の学生交流、右はベトナムの工場見学の風景。

日本の経験をアジアに生かす

 低位中所得国においては、国有企業や既得権益、企業と官僚の癒着、複雑な行政機構が資本や土地の要素市場を歪め、発展スピードにブレーキをかけてしまう。その制度的欠陥のため、民間や外資企業も資意欲を減退させ、国際競争力の低下へとつながります。まさに現在のベトナムが直面する危険な罠です。加えて、中国の大規模な工業品をはじめ、他国の工業品との競争に負け、工業化の進展がさらに阻害される。また、制度の抜本的改革を実行しないまま、TPP加盟など貿易・投資の自由化を進めば、現在の比較優位構造が固定化され、工業化の進展が困難になってしまう。私はその現象を「自由貿易の罠」と呼びます。だからこそ低位中所得国は油断せず、資本・土地の要素市場の健全化、効率的な公共インフラや官僚制度の整備に努め、改革の手を緩めないようにしなければならないのです。

 今後は、長年の宿題であった日本経済の発展経験の研究に本格的に取り組みたい。明治維新と戦後の高度成長期を中心に、社会能力と発展との関係に着目して分析することで、現在ASEANが直面している課題に対しての示唆が期待できると考えています。

一連の研究をまとめた著書『べトナム経済発展論:中所得国の罠と新たなドイモイ』(勁草書房,2010年)

 2012年、著書『東アジア経済の構造変動とベトナムの工業化戦略』が、ベトナム優秀図書賞(経済部門)を受賞。同賞は、ベトナム社会全体の教養向上・読書運動を進めるために、各分野の優秀な図書に与えられる。写真はベトナムでの授賞式風景

トラン・ヴァン・トゥ/社会科学総合学術院教授

1949年ベトナム生まれ。1968年ベトナムでの高校卒業後、日本の国費留学生として来日。1973年一橋大学経済学部卒業。1978年一橋大学大学院経済学研究科博士課程修了(1993年経済学博士)。日本経済研究センター研究員・主任研究員、桜美林大学国際学部助教授・教授を経て、2000年から現職。1993‾97年ベトナム首相経済行政改革諮問委員。1997‾2006年ベトナム首相政策研究委員会メンバー。2008年ハーバード大学客員研究員。ベトナム太平洋経済センター(VAPEC)会長、早稲田大学ベトナム総合研究所所長、日本国際フォーラム政策委員などを務める。1993年度アジア・太平洋賞(特別賞)、2012年ベトナム優秀図書賞(経済部門)。主な著書に『産業発展と多国籍企業:アジア太平洋のダイナミズムの実証研究』、『ベトナム経済の新展開—工業化時代の始動』、『最新・アジア経済と日本—新世紀の協力ビジョン』(共著)、『ベトナム経済発展論—中所得国の罠と新たなドイモイ』。