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研究力

▼知の共創—研究者プロファイル—

大須賀 沙織/早稲田大学文学学術院助教 略歴はこちらから

バルザックの神秘思想文学という
未開拓領野に先鞭をつける

大須賀 沙織/早稲田大学文学学術院助教

■セラフィタの天上世界に魅せられて

『セラフィタ』の翻訳各版と論文掲載書

 私は大学院の修士課程から一貫して、19世紀フランスの作家、バルザックの作品の中でも異色の『セラフィタ』という作品を中心に、その神秘思想の背景、聖書の影響などについて研究してきました。『セラフィタ』との出会いは、大学の学部時代に遡ります。福島から上京して文学部に進学した私は、ドストエフスキーに出会い、夢中で読んでいました。全作品を読み終えてしまって、次に手に取ったのが、ドストエフスキーが尊敬していたというバルザックでした。バルザックの描く19世紀フランスの社会風俗、人間模様はあまりにも生々しく、読書に疲れて寝てしまうと、夢の中にもそのまま物語の場面が出てきてしまうほどでした(苦笑)。それでも全集をすべて読んでしまい、ほかに翻訳はないかと探して見つけたのが、「世界幻想文学大系」に収められていた『セラフィタ』でした。

 それまで読んできたバルザックの世界とはまるで違う、北欧を舞台にした美しい天上世界の物語が繰り広げられていることに驚き、すっかり魅せられてしまいました。セラフィタという、天使9階級のうち最上級の愛の天使から取られた人物を主人公とし、一人の牧師の独り語りのようなかたちで、スウェーデンの神秘的神学者、スウェーデンボルグの神秘思想が展開されていて、その奥深さに圧倒されました。卒業論文ではとても扱えない作品だと感じ、いつか機会があれば…という気持ちで卒業したのですが、4年後に大学院に戻ってくることになり、『セラフィタ』の研究に着手することになりました。

バルザック『人間喜劇』の分野構成

 バルザックというと社会風俗を写実的に描いた作家として知られていますが、哲学作品においては正統も異端も様々なものを取り込んで懐の深い精神世界を展開しました。哲学作品の最奥部に置かれているのが、『追放者』、『ルイ・ランベール』、『セラフィタ』からなる「神秘の書」三部作と言われる作品です。『セラフィタ』は、当時のフランスでは異端とみなされたスウェーデンボルグの思想を中心に据えており、また、スウェーデンボルグの要約本からの引用/借用が多いことから、「剽窃」という批判も受け、踏み込んだ研究がなされていませんでした。

 修士から博士課程に進み、フランスに留学することになりますが、フランスのバルザック研究者の中にこの分野の専門家が見つからず、パリ第4大学のドミニック・ミエ先生という、以前早稲田にも講演にいらしたことのある、カトリック作家や聖書学の専門家に指導教授になっていただきました。

■聖書のエディションを辿ったパリでの日々

 フランスでは、基礎的な文献調査に多くの時間を費やしました。19世紀にバルザックが使っていた聖書と、18世紀にスウェーデンボルグが使っていた聖書各版を、出版目録や所蔵リストや聖書引用をもとに辿り調べました。スウェーデンボルグの使ったプロテスタント系聖書のエディションはフランスの図書館に所蔵されていないものも多く、ロンドンの大英図書館やスウェーデンボルグ協会に足を運んで調べました。

 本来このような基礎的文献調査は、何かしら手掛かりとなる先行研究があるものなのですが、誰も原典に当たってくれていないから、日本人の私がやるしかないのねと…(笑)。キリスト教文化の中で育った人々には、聖書なんて当たり前すぎて調べる気も起きない、ということがあるのかもしれませんが、私にとっては聖書というのは新鮮な世界で、バルザックやスウェーデンボルグが使った聖書を知りたい!という好奇心もあって、地道な作業に没頭していました。

セラフィタのモデルとなったテオフィル・ブラの天使像(1830年頃作)
Théophile Bra, Ange en adoration, Musée de la Chartreuse, Douai, France

 とにかく淡々と文献調査をして、作品を読み込んで、1章ずつ書き上げていきました。ひとまとまり書き上げるごとに、ミエ先生に面談していただくのですが、その前に、添削をお願いしている方に見ていただいて。ソルボンヌ大学の掲示板で見つけたおじいさんの先生なのですが、聖書や思想にも造詣の深い方だったので、議論しながらもっと良い表現を提案していただいたり。やり取りを通じてフランス語の細かいニュアンスも学ぶことができて、とても楽しかったです。

 フランス北部のドゥーエという小さな町の美術館に、セラフィタのモデルになった天使の彫像が保存されていて、修士論文を書く時に問い合わせ、写真や関連文献を送ってもらっていたのですが、留学中に実際に見に行くことができました。バルザックはこれを作った友人の彫刻家のアトリエで見てインスピレーションを受けました。「この世でもっとも美しい傑作を見ました。…もっとも美しい本を思いつきました」と書き残しています。セラフィタの表情や容貌の描写が作品中でも重要な意味を持っており、モデルを実際に見ることで理解を深めることができました。

 滞在5年目には執筆のめどもだいたい立って、日本に帰国し半年で博士論文を仕上げ、論文審査にあたって再度パリに行きました。公開審査を聞きに来てくださったパスカル研究者のフィリップ・セリエ先生や指導教授のミエ先生が、この論文の刊行のために手配してくださり、オノレ・シャンピオンという学術出版社から出版していただくことになりました。バルザックの宗教的な側面に光を当てることができて、バルザックが喜んでくれているといいなと思います。

2010年11月、パリ第4大学での博士論文公開審査終了後、審査員の先生方と(写真提供:支倉崇晴先生)

2012年4月、博士論文を書籍にした『セラフィタと聖書』が出版、パリのオノレ・シャンピオン社のショー・ウィンドーに並んだ。(写真提供:竹田千穂さん)

■世界の対立を緩和するために

 今後さらに掘り下げたいことの1つは、女性神秘思想家の研究です。バルザックに影響を与えた3人の女性として、アビラの聖テレサ、アントワネット・ブリニョン、ギュイヨン夫人がいるのですが、聖テレサはスペインのカルメル会の改革者として認められてきましたが、フランス人の2人は17世紀のルイ14世の時代に迫害され、歴史の影に追いやられることになりました。女性ならではの感覚で、信仰を純粋なかたちに戻す必要を訴え、外的な信仰ではなく内面の祈りを重視する思想を展開しました。当時のカトリック教会にとっては反体制、脅威とみなされる存在だったのです。この2人の思想について、バルザックとの関連の中で探っていきたいと考えています。

 カトリックの典礼文化そのものにも関心を持つようになりました。フランス滞在も終わり頃になって、「聖書のほかに何か別の基盤があるのでは?」と思って気づいたのが、ミサや晩の祈りの時に使うラテン語の典礼書の存在でした。ミエ先生に「バルザックの時代と同じミサをしている教会は、今でもどこかに存在しますか」と伺ったら、「あるわよ」とおっしゃり、そうした教会の一つに連れていってくださいました。そこでは今まで体験したことのない美しく荘厳な典礼が繰り広げられていました…。パリの普通の人々が、ラテン語でお祈りして、ラテン語で聖歌を歌っていて、「こんな場所が現代にまだあるなんて…!」と驚嘆しました。これが私の研究の新たな展開へのきっかけとなり、今では毎年フランス各地の教会や修道院を訪ね歩いて、一週間ほど滞在しながら調査させていただいています。グレゴリオ聖歌のラテン語の歌詞と四線譜に四角符の楽譜、そのメロディーにも魅了されています。

 文学と物語は人間性を育むうえで欠かすことのできないものです。今世界で起きている悲しむべき対立や暴力は、相手を理解しようとする努力、相手が置かれている状況に対する知識と想像力の欠如が原因となっていると感じます。対立と暴力を避けるには、自分の知らない世界観や価値観を読み解き、言葉を尽くして対話を続けていくしかありません。その基礎を作るのが文学であると思っています。

2013年8月、ポワティエ近郊の修道院でグレゴリオ聖歌講習会に参加。

2013年5月、早稲田大学でのフランス比較文化論の授業にて。ダニエル・クチュール神父を招き、西洋音楽の源流であるグレゴリオ聖歌についてフランス語で講演いただいた。素晴らしい歌も披露された。

大須賀 沙織(おおすが・さおり)/早稲田大学文学学術院助教

1999年早稲田大学第一文学部フランス文学専修卒業。2005年早稲田大学大学院文学研究科フランス文学専攻修士課程修了。2006年パリ第4大学フランス文学専攻Master 2課程修了、2010年同Doctorat課程修了。文学博士。2011年早稲田大学大学院文学研究科博士課程退学。日本学術振興会特別研究員DC1(2008~11)、早稲田大学、学習院大学、カリタス女子短期大学非常勤講師を経て、2013年より現職。2015年度早稲田大学リサーチアワード(国際研究発信力)受賞。