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研究力

▼WASEDA研究特区―プロジェクト研究最前線―

国内の大学で唯一の海外研究拠点で
バイオメディカルの戦略展開を目指す

早稲田バイオサイエンスシンガポール研究所(WABIOS)

 エネルギーや水、食糧などの資源をほとんど持たない小国シンガポールは、独自の国際的な経済政策、貿易政策によって、アジア経済のハブとなることを目指してきた。近年は、次世代・次々世代の先端領域にターゲットを定めた大胆な科学技術イノベーションによる成長政策を展開している。2000年頃から特に力を入れてきたのが、バイオメディカル分野である。

 バイオメディカル分野では、医薬品にしても、治療や検査の新しい手法にしても、製品として市場に出すには、各国の安全規制ルールに従った臨床試験(治験)を実施し承認される必要がある。国によって違いはあるが、基礎研究から臨床試験を経て製品化されるまでには長い年月を要する。日本では新薬の製品化には、およそ10年〜20年もの期間を要してきた。このプロセスをいかに迅速に進められるか、研究環境と臨床試験の対応体制の両面が整っていることが、先端的なバイオメディカル研究においては必須である。

 シンガポールでは、バイオメディカル分野を戦略ターゲットに据えると同時に、基礎研究〜臨床試験〜製品化までを戦略的に促進するための一貫したソフトインフラ体制を整えてきた。シンガポールでスムースに臨床試験を進めることができれば、データを各国へ持ち帰り、自国での開発〜承認審査をスピーディに進めるための優位な材料とすることができる。こうした優位性が、世界中の企業や、アカデミックな研究拠点を吸引する1つの原動力となっている。基礎科学からのイノベーションを目指して世界中から一流の研究者を集めると同時に、世界の名立たるグローバル製薬企業や医薬品関連産業を誘致し、臨床試験と生産の拠点を立地させることに成功してきた。

 シンガポール最西端に整備されたバイオメディカル産業のための工業団地「トゥアス・バイオメディカル・パーク」(2000年オープン)には、ファイザー、ノバルティス、メルク・シャープ&ドーム、ロシュ、グラクソスミスクライン、アボット…、世界の医薬品企業トップ10に居並ぶ企業が生産拠点を進出させている。シンガポール中心部近郊に整備された研究開発機能集積拠点「バイオポリス」(2003年オープン)には、シンガポール科学技術研究庁(ASTAR)の国立研究所とともに、世界中の企業や大学、政府系研究機関が、バイオメディカルの研究開発拠点を進出させている。さらにバイオと物理・化学・工学との学際分野の創成・発展に戦略を定めた新しい集積拠点「フュージョノポリス」(2008年10月オープン)を整備、こちらも国内外の多数の機関が進出している。

 この国際集積拠点に日本の大学から唯一、研究拠点を進出させているのが、バイオポリスに拠点を置く早稲田バイオサイエンスシンガポール研究所:WABIOS(Waseda Bioscience Research Institute in Singapore)である。シンガポール進出のねらいと研究戦略について、WABIOS所長を務める石渡信一・理工学術院教授に話を聞いた。)

早稲田大学WABIOSが入居する「バイオポリス」。2006年までに整備された研究棟9棟のうち、5棟はASTAR傘下の国立研究機関が、4棟は世界中の産学官の研究施設が入居している。これに加えて2010年には新たに、トランスレーショナル研究や医療技術・医療機器研究にターゲットを据えた研究棟がオープンしている。2013年までには330万㎡の一大集積拠点となる計画だ。(写真:シンガポール経済開発庁資料より)

WABIOS所長を務める、石渡信一 理工学術院教授

“アジアの早稲田”の新拠点として

 そもそも早稲田大学のシンガポールへの研究拠点の進出は、WABIOSの開設に先立つ2004年に遡る。シンガポール政府からの要請もあり、バイオポリス内にオリンパス株式会社との共同出資で、早稲田オリンパス バイオサイエンス研究所(WOBRI)を開設したのが発端である。

 「2004年から5年間、ニューロサイエンスに関連する研究を通して、ASTARをはじめとするシンガポールの研究機関や大学との共同研究体制の基礎固めはできていました。2009年4月にWOBRIのプロジェクトが終了した後、半年間の議論を経て、早稲田大学が引き続き単独で研究拠点を維持していくことを意思決定しました。それまでの取り組みが布石となって、WABIOSの活動はスタートしたのです」(石渡教授)

 日本の大学が単独で海外に研究拠点を置く例は、他にはまだない。最先端分野だけに研究開発には大きな投資と成功のリスクが常に伴い、簡単に決められることではない。しかしシンガポールで築き上げた連携の実績は、大きな財産だった。医学部を持たない早稲田大学にとって、シンガポールや他国の医学系研究者と国際的な共同研究を行っていくことは、バイオメディカル分野を発展させるうえで大きなチャンスである。

 「本学の理工学術院には、基礎科学としての生命科学に取り組んでいる人たちが多数います。国内ではすでに、ASMeW(先端科学・健康医療融合研究機構)TWIns(先端生命医科学センター)などの、医理工融合を目指した共同研究の拠点形成も行ってきています。さらにシンガポールで拠点を形成することは、歴史的にアジアの中の大学を意識し、各国の要人とも深い交流があり、名立たる大学とも連携してきた本学としては、必然的な展開といえます。東アジアのみならず、東南アジア、オーストラリアを含めた広域のアジアネットワークを形成していくうえでも、重要な拠点になると考えました」(石渡教授)

 2011年7月には、早稲田大学の重点領域研究にも採択され、学内の競争的研究資金も確保して、スタートアップにはずみをつけてきた。

理工学のバックボーンを生かした生命科学の研究拠点

 WABIOSの研究戦略は、物理学、化学、情報科学、医学を融合した生命科学の学際研究を推進していくことである。具体的には、(1) フィジカルバイオロジー、(2) ナノバイオテクノロジー、(3) バイオイメージング、(4) ケミカルバイオロジー の4つの研究テーマを据えて、3つのグループで研究活動を進めている。

WABIOSでは3つの研究グループが活動している

 例えば細胞一個の「温度」 や「力」を測定し、細胞てみられる現象を物理的視点から理解する研究を進めるフィジカルバイオロジー領域では、「細胞内を歩くナノ温度計」というコンセプトの、ユニークな研究開発に取り組んでいる。世界最高の分解能で温度変化や分布を高速に測定できる手法で、世界で初めて、細胞内の温度変化と細胞機能の同時計測に成功している(2012年3月発表)。これまでの科学では、細胞内部の温度分布は一様なものとみなされ捨象されてきた。しかしこの微細なレベルの温度変化を測定し、生体機能と結びつけることができれば、がんなどの発症メカニズムの解明や新しい治療方法の発見などに結びつける可能性が広がる。

 「蛍光色素をポリマーで包み、温度のみに反応させることができる蛍光ナノ粒子を開発しました。これを細胞に振りかけるだけで細胞内部に自然に取り込まれ、しかも取り込まれた小胞にモーター蛋白質がくっついて、細胞内の微小管(筒状の蛋白質重合体)の上を一方向に歩き回ってくれるのです。温度変化に従って分子モーターが加減速し、各所の温度をモニターして歩いてくれるというわけです。今後の課題は計測感度の向上です。現段階での分解能は0.3℃程度ですが、少なくともあと1桁は上げたい。計測方式の技術的な改良も図らなければなりません」(石渡教授)

蛍光ナノ温度計のコンセプト

A:細胞内を歩くナノ温度計、B:観察された位置と移動の高分解能マッピング

 ナノバイオ領域では、シンガポールの研究者とも連携しながら、人工赤血球の研究開発に力を入れている。人工赤血球は、臓器保管や組織再生工学などでの利用や、自然災害や新興感染病などの際の備えとして有用性が高い。シンガポール国立大学医学部、同・理工学部生体工学科との連携で、動物投与試験を計画している。

 「献血で集められた血液は保存が効かず、かなりの割合で廃棄されているのですが、ここからヘモグロビンを取り出して人工の膜を付加して保存可能にし、酸素運搬機能を持つ人工赤血球として実用化するための開発を行っています。人工赤血球の研究は他でも取り組まれていますが、本物の赤血球と同等の酸素運搬機能と高い安全性を達成しているのは我々だけだと思います」(石渡教授)。

ヘモグロビンを活用した人工赤血球の研究開発

 2011年12月より新たに研究グループを設置し、バイオイメージング領域では分子プローブの設計・開発により、正常な状態と病気の状態にある細胞の中の現象を比較し、違いを探索している。そして開発した分子プローブをケミカルバイオロジー領域でも利用し、病気の原因となる現象を制御する物質を見つけるなど、新しい診断法の確立や治療薬の発見を目指している。

魅力的だが厳しい研究環境で

 バイオポリスの中ではシンポジウムやセミナーがひんぱんに開催され、研究者同士の交流や情報共有の機会が日常的に持たれている。インターネットで検索できる研究者データベースもしっかり整備されており、共同研究が促進される環境が整っている。

 シンガポール政府では毎年、戦略研究テーマを設定してプロジェクトの公募をかけ、1グループに10年間で100億円もの大型資金を拠出している。新たな共同研究プロジェクトを組織して、こうした政府資金を確保していくことも、シンガポールに拠点を置く海外の研究機関の大きな目標である

 「あらためて驚いたのは、シンガポール政府が、メカノバイオロジーのような特殊な分野にも大型の政府資金を投資していることです。これは我々のように、医学と理工学の融合にポテンシャルを持った研究拠点にとっては、たいへん有利です。フィジカルバイオロジー領域で目指している、血管や筋肉、細胞の世界の物理特性を探る研究開発が、まさにぴったり当てはまります」(石渡教授)

 その第一歩として、2012年にスタートさせたのが、南洋理工大学の佐藤裕崇助教授との共同研究による「バイオエレクトロニクス」のプロジェクトである。同プロジェクトは、ASTARと(独)科学技術振興機構(JST)の連携による助成プロジェクトとして2012~2014年の3年間、30万シンガポールドルが各グループに拠出されることになる。

昆虫にバイオチップを埋め込み、電気的な信号で昆虫の運動を制御する「バイオエレクトロニクス」のプロジェクト。早稲田大学出身で南洋理工大学の佐藤助教授が手がけて来た「サイボーグ昆虫」の研究と、筋肉の生物物理学を専門とする石渡教授グループの、新たな共同研究に期待が広がる。

 国際性豊かな研究人材の育成も、WABIOSの重要な狙いである。戦略的な分野に的を絞って、少数の人材の交流・連携が目指されている。現地の研究機関や大学との交流協定はすでに何年も前から締結している。新たに、ASTARとの間で研究者交流プログラム(ARAP)も締結、早稲田大学の博士課程の学生がシンガポールの研究機関で指導を受けながら、早稲田大学の学位を取得できる制度なども整備されている。

 「シンガポールは、魅力的なテーマで世界中から人を集める一方で、評価もとても厳しいですし、雇用条件も甘くありません。政策方針や研究戦略が変われば、海外からわざわざ移転してきた人でも、容赦なく解雇される場合が少なくありません。もちろんそれを覚悟で集まってきているのです。そういう厳しい環境で学ぶことは、日本の若い研究者たちにとっても大きな刺激になることは間違いありません」(石渡教授)

 WABIOSの取り組みは、日本からの進出のパイロットプロジェクトとして、内外から高く注目されている。日本ではできない学際性+国際性の多彩な展開の中で、その基礎研究が、バイオメディカル分野はもちろん、環境やエネルギーなど地球規模の喫緊課題への応用発展へとつながる可能性にも期待が膨らんでいる――。

関連リンク

早稲田バイオサイエンスシンガポール研究所(WABIOS)
早稲田大学 重点領域研究機構
早稲田大学 理工学術院
シンガポール科学技術研究庁 (ASTAR)
シンガポール国立大学
南洋理工大学