早稲田大学の教育・研究・文化を発信 WASEDA ONLINE

RSS

YOMIURI ONLINE

ホーム > 早稲田評論 > 映画評

早稲田評論

▼映画評

長谷 正人/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部)  略歴はこちらから

『借り暮らしのアリエッティ』(米林宏昌監督、2010年)
観終わった後に感じる余韻の幸福

長谷 正人/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部)

 「まあ、いい香り」。 屋敷の主人である上品な婦人が、ドールハウスの台所に置かれた、指先ほどの大きさしかない小さなポットを取り出してその中を覗いてみると、確かに中にはたったいまお湯をかけられたように香りをたてているミントの小さな葉っぱが入っている。だから、主人公・翔の大叔母であるこの女性・貞子は、むかし父親が言っていた通りこの屋敷には小人が住んでいるということを確信して、幸せそうに微笑む。

 ではそこで、彼女はどうするのだろうか。いや、何もしないだろうと私たち観客は知っている。貞子は、家政婦ハルのようにねずみ取り業者を呼んで小人を屋敷から追い出そうとするわけでも、病弱の少年・翔のように小人たちと実際に会話して心を通わせようと画策するわけでもないだろう。彼女はただ小人たちの暮らしの痕跡を見ただけで満足して、現実の小人たちを探そうともしないのだ。彼女はそれだけでなぜか充分に幸福なのだ。

 事実、この映画はその後そのように進行していくのだが、なぜか観客はそれが予め分かってしまう。なぜなら、彼女の「いい香り」という気持ちが映画を観終わったときの感情と良く似ているからだ。「ああ、面白かった」という感情に。映画を観終わった後、それまで観ていた戦争や恋愛の物語がもう目の前から消え去ってしまったというのに、その主人公たちがその後どうなったかを実際に確かめようとする気もなく(フィクションなのだから当然だが)、私たちは、まるで去って行った小人が煎れたハーブティーの残り香を楽しむように、その映画の余韻を味わうものだろう。幸福な時間は過ぎ去ってしまった。だがだからこそ楽しい。

 この『借りぐらしのアリエッティ』というアニメ映画の場合も同じだ。確かに私たちは、小人が屋敷の中に隠れて、人間が使う砂糖やビスケットや布の端切れを拝借して暮らすというアニメ映画を見て、小人の視点から人間たちの暮らしを見たときにこんな風に見えるんだということに驚き、壁やカーテンを移動することが決死の冒険旅行になることに興奮し、巨大な人間の男の子とちっぽけな女の子の淡い恋物語に胸をときめかす。しかしアリエッティたちが、ラストで新しい家でのくらしへと旅立つのを見ても、誰も彼らの将来がどうなるかなどと心配はしないだろう。そしてエンディングロールを見てただ「ああ、面白かった」と思うのだ。

 そもそも小人の話など誰かが空想で考え出した嘘っぱちにすぎない。だから子供のようにそれを真に受けたとしても何の意味もない。しかしそのような儚い嘘っぱちに心を動かされた後で現実に戻ったとき、ふと人間は幸福な気持ちになる。さっきまで見ていた夢のかけらが、ハーブティーの香りのように自分の周囲にかすかにたちこめているような気さえする。『借りぐらしのアリエッティ』は、そんな風に映画を観終わった後に感じる余韻の幸福を思い出させてくれる、いまどき貴重な上品な映画だ。

『借りぐらしのアリエッティ』(米林宏昌監督、2010年)

長谷 正人(はせ・まさと)/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部)

早稲田大学第一文学部社会学専攻卒業、大阪大学大学院人間科学研究科中途退学。千葉大学助教授などを経て現職。
専門は映像文化論、コミュニケーション論。
主著として『映像という神秘と快楽』(以文社)、『コミュニケーションの社会学』(共編著、有斐閣)、『テレビだョ!全員集合』(共編著、青弓社)など