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石井 昌幸/早稲田大学スポーツ科学学術院准教授  略歴はこちらから

スタジアムのなかの階級文化

石井 昌幸/早稲田大学スポーツ科学学術院准教授

 キッカーがボールをセットすると、場内に「シー」というアナウンスが流れた。静まり返るスタンド。ゆっくりと助走に入った彼の蹴ったボールは、緩やかな弧を描いてゴール・バーを越えた。沸き上がる拍手。ラグビーのペナルティ・キックは、まるでゴルフのパットや、テニスのウィンブルドン大会でのサーブのように、静寂のなかで行なわれる。

 イングランド中部の町レスターは、ロンドンから鉄道で1時間ちょっとのところにある。そこで私は1年ほど暮らした。人口30万人に満たないこの町に、サッカーとラグビー、それぞれのプロ・チームがある。サッカー・クラブはレスター・シティといって、いまプレミアリーグの下のチャンピオンシップにいる。最近、浦和レッズの阿部勇樹選手が移籍して話題になったチームだ。ラグビー・クラブはレスター・タイガーズ。「ラグビー界のマンU」と呼ばれることもあるほどの強豪で、各国の代表選手を擁して、昨シーズンはラグビー・プレミアシップで優勝した。2つのクラブは、目と鼻の先に互いのホーム・スタジアムを持っている。

試合終了後のサッカー場。大勢の警備員がピッチを取り囲む。

 サッカー好きの私は、シティのシーズン・チケットを買ってホームゲームに通ったが、ときどきラグビーも観に行った。サッカー場の空気に慣れた私には、ラグビー場の雰囲気は、ちょっとしたカルチャーショックだった。ふたつのフットボール・スタジアムを比べてみよう。

 試合開始直前まで、サッカー場のスタンドはがらがらだ。10分前になっても空席が目立つ。それが5分前になる頃から、スタジアムを取り囲むいくつもの入り口からいっせいに人が入ってきて、あっという間にスタンドが埋まる。これがイギリス流なのかと思っていたら、ラグビーでは、ほとんどの観客が10分前には行儀良く席についているではないか。しかも、ホームとアウェーのサポーターが入り交じって応援するのだ。家族連れやカップルも多く、観戦しながら談笑している姿も目につく。いかにも「楽しみにきました」といった感じだ。

 サッカーでは、アウェー側サポーターはスタンドの一画にかたまって座る。ときおりホーム側から罵声を浴びせられ、大声で応戦したりしている。両脇には空席が数列設けられ、そこにずらりと警備員が並んで警護する。近年女性客が増えたと言われはするが、それでもサッカー場は圧倒的に男性だらけだ。みな仏頂面で、じっとピッチを見つめているかと思うと、やおら野太い声で応援歌(チャント)の合唱を始める。スタジアムに響くその声は、地鳴りのようだ。サッカーのチャントにはさまざまなものがある。味方への讃歌、相手への罵倒。審判がホーム側に不利な判定をしようものなら、たちまち怒号がスタンドをつつみ、審判を愚弄するチャントの大合唱が起きる。冒頭で紹介したペナルティ・キックでも、サッカー場なら相手選手がPKを蹴るまで、猛烈なブーイングが止まないだろう。

あるサッカー場でみかけた張り紙。座席へのアルコール持ち込みを禁じている。

 2つのフットボール文化の違いは、それを支持してきた人びとの階級が異なることに起因している。サッカーが長いあいだ圧倒的に労働者階級の娯楽だったのに対して、ラグビーは、テニスやゴルフと共通するミドルクラスの文化だった。プレミアリーグ設立以降、チケット価格の高騰にともなって、サッカーもミドルクラス的娯楽になってきたと言われる。現在、大部分のサッカー場には、特に危険な空気はない。いっぽう、プロ化の影響か、ラグビー場でも審判を野次る人や、チャントの合唱(自軍の名を連呼するだけだが)が見られるようになった。観客の振る舞いの違いは、もはやスタジアムの外の社会関係とはかならずしも一致しない階級文化の名残り、スタジアムのなかだけの「作法」なのだろうか。

 しかし少なくとも、「秩序」というものに関する考え方において、観客に向けられた「視線(まなざし)」には、やはり2つのスタジアムで大きな違いがあるようにも思える。1989年の観客圧死事故以来、サッカー場は法の力によって全席椅子(指定)席化されたが、ラグビー場にはいまでも、最前列に立ち見(テラス)席がある。サッカーでは客席へのアルコールの持ち込みは、これも法律で禁止されているが、ラグビーでは飲みながら観戦できる。試合終了後、サッカー場ではどこからともなく大勢の警備員がでてきて、観客が入らないようにピッチを取り囲む。スタジアムの外には警官が大勢いるし、騎馬警官が巡回していることも多いが、ラグビー場では警備員や警官はわずかである。ラグビー場の秩序が、基本的にミドルクラス的「自己統御」の原理に委ねられているのに対して、サッカー場はいまでも、徹底的に管理すべき「潜在的に危険な場所」として、位置づけられているように思えるのである。

石井 昌幸(いしい・まさゆき)/早稲田大学スポーツ科学学術院准教授

早稲田大学教育学部体育学専修卒業、京都大学人間・環境学研究科ヨーロッパ文化地域環境論専攻修了。広島県立大学専任講師を経て現職。専門はスポーツ史。主な論文に「ラグビーでみるイギリス社会史」、『季刊民族学』(国立民族学博物館編)所収、「フィールドのオリエンタリズム」、『スポーツ』(ミネルヴァ書房)所収など。