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早稲田評論

▼映画評

長谷 正人/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部) 略歴はこちらから

『ゲゲゲの女房』(鈴木卓爾監督、2010年)
貧乏生活を愛しい生き物を観察するようにじっと眺めること

長谷 正人/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部)

 何でもないような映画である。水木しげるがまだ売れなかった貸本漫画家時代の貧乏生活が、妻・布枝の視点から丁寧に描かれる。BGMのないシーンとした静寂の中で、水木しげる役の宮藤官九郎が仕事机に左半身をもたれかからせるような独特の姿勢でカリカリと音を立てて絵を描いていたり、布枝役の吹石一恵が、近所からひっこ抜いてきた雑草を包丁でトントントンと細かく刻んで鍋に入れたり、止まってしまった柱時計のねじを2回、3回とギッ、ギッと回したり、寒いので靴下をもぞもぞと重ねて履いたりするところを(何と生足のアップである)、私たち映画観客はまるで生き物の生態観察をしているかのようにじっと眺め続けるのだ(鈴木卓爾監督の前作が、路上の猫の生態をじっと観察する『私は猫ストーカー』だったことが思い出される)。

 取り立ててドラマチックな出来事が起きるわけでも、感動的な挿話が情緒的な音楽の盛り上がりと共に提示されるわけでもない。水木夫妻は、少しばかりの葛藤や食えない悔しさを抱えつつも、ただ淡々と慎ましく生きていくだけだ。だが、その何でもないような時間が経過していくということが、そしてそういう人間の暮らしをじっと耳をすましながら眺めることが、とても愛おしく貴重な体験のように思えてくる。そこが本作の魅力なのだ。

 とはいえ確かに、ときどき妖怪や火の玉が出て来たり、マンガの絵がアニメとなって動き出したりして、私たちをドキッとさせてくれることはある。だがやはり、妖怪の出現やアニメによる水木しげるの戦争体験の回顧が、この映画を情動的に大きく揺り動かしたりするわけではない。原っぱや川辺にいる妖怪たちもまた、ただ野良猫のように慎ましくそこに存在しているだけで、人間たちに対して悪ささえしない。だから私たち観客もまた、大げさなドラマや音楽を期待することなく、観客としてただこれを慎ましくじっと見つめなさいと促されているかのようだ。

 だからこの映画は、過剰なまでに消費者中心主義的な現代社会や現代映画に対して徹底的に背を向けた、反時代的な映画だと言えるかもしれない。ちょうどそれは映画のなかで、水木の貸本漫画が、こんなのいまどき暗くて売れないよと言われることを想起させるだろう。いわば本作は、「貸本映画?」のように、暗くマイナーな作品として製作された。ところが偶然にも同時期にNHKによって同じ原作がテレビドラマ化されてヒットしたため、まるでブームを当て込んで作られたかのように、いまシネコンの上映作品に妖怪のように紛れ込んでいるわけなのだ。

 これは観客にとって、とんでもなくラッキーなことだと言えよう。だから私たちは本作を、自分の近所のシネコンで、日常生活の延長として慎ましく見なければなるまい。実際、私はそうしたのだが、間違ってメジャー作品のつもりで見に来た隣の老夫婦が、水木さんが屁をこくところや妖怪の登場場面で楽しそうに笑って見ていた。それが私には近来稀なとても幸福な映画鑑賞体験だった。

長谷 正人(はせ・まさと)/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部)

早稲田大学第一文学部社会学専攻卒業、大阪大学大学院人間科学研究科中途退学。千葉大学助教授などを経て現職。
専門は映像文化論、コミュニケーション論。
主著として『映画というテクノロジー経験』(青弓社)、『映像という神秘と快楽』(以文社)、『コミュニケーションの社会学』(共編著、有斐閣)、『テレビだョ!全員集合』(共編著、青弓社)など