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演劇におけるフィクションの力と現実の変容 第二回

『言葉なき行為Ⅱ』(原作:サミュエル・ベケット 演出:サラ・ジェーン・スケイフ)

坂内 太/早稲田大学文学学術院准教授(文化構想学部)

坂内 太/早稲田大学文学学術院准教授(文化構想学部)  略歴はこちらから

 今年のダブリン演劇祭では、ショーン・オケイシーやイプセンなどの古典の読み直しに優れたものがあったが、とりわけベケットの『言葉なき行為Ⅱ』は異彩を放っていた。これは文字通り台詞のないマイム劇で、舞台上には二つの大袋が置かれており、舞台袖から現れた突き棒が袋を激しく突くと、中から四つん這いで現れた男が、祈り、物思いに耽り、錠剤を飲み、人参をかじった後、袋の中に戻っていく。他方の袋が突かれると、這い出てきた男が時計を見て体操したり歯を磨いたりした後、地図を確認してよろめきながら移動するが、やがて袋の中に戻っていく。彼らの滑稽で底抜けに哀れな営みを見ながら、しみじみと自分の似姿を見つけてしまうのが、この無言劇の怖いところだ。

 しかし、この滑稽さの演出には、近年、同作品を手がけて「ベケットの明るい面を引き出した」と評されたピーター・ブルックのような軽妙な機知は少しもなかった。伝わってくるのは、もっと鈍重な手つきで、少しずつ崩れていく人間性の最後の崩壊を食い止めながら、その必死な自分に自己言及するような深いおかしみである。

 チケットを買った観客たちは、目抜き通りに面した五つ星ホテル前に集まるように指示される。開演時間が近づくと、スタッフが彼らを上演場所に連れて行くのだが、そこはダブリンで最も悪名高い非衛生的な路地である。大劇場の裏手にあたり、常に尿と吐瀉物の悪臭が立ちこめる暗く狭い袋小路で、普通の市民なら足を踏み入れない場所だろう。寒空の暗闇の中、観客たちが立ちすくんでいると、やがて臭い袋小路に面した扉が開き、細く差し込んだ光の帯の中に二つの大袋が現れて上演が始まる。

『言葉なき行為Ⅱ』(撮影:坂内太)

 社会の中でフィクションの訴求力が衰退していることへの現状批判を込めてはいるのだろう。だが、バブル経済の高揚感と経済破綻後の狂奔とで崩れゆく伝統的なアイルランドの姿を、批評的な距離感を持って鏡に映すような、安全な観察者の立ち位置は感じない。二人の俳優共に、芸術分野への助成金を政府が削減した影響を直接被っている。一人は主催する劇団が壊滅的なダメージを受け、もう一人は勤めていた大学付属の俳優養成所が閉鎖されて、そこでの職を失った。大劇場の路地裏で寡黙に過ごし、大きなゴミ袋から這い出ては一連の所作を繰り返し演じ続ける「廃棄された俳優」という意味の層を一枚加えながら、こうした二人が、人間性の崩壊を食い止める必死さのおかしみを演じるのだから、いかにも肝が据わっている。

『言葉なき行為Ⅱ』(撮影:坂内太)

 リハーサルの撮影を終えた私に向かい、無言劇の沈黙を破った二人の俳優が、力強い笑顔で話しかけてきた。この後、俳優の一人は、すぐにまた演劇の現場で会えるといいという意味で、“Hopefully our paths will cross again soon.”と表現したのだが、彼にとってはこの先どうなるか分からない状況の中、文字通り、お互いの歩む道筋が交わることの幸運を率直に表してもいたのだろう。

 こうした上演の逞しさには、ある種の感染力を持った愉快さがある。だが、そうした愉快さを愉快に受け止めて良いものか戸惑う。そこにはまた、見る者の意識の変容を迫り、安全な距離から舞台を観察するような立ち位置の変容を迫る厳しさがあった。

坂内 太(さかうち・ふとし)/早稲田大学文学学術院准教授(文化構想学部)

早稲田大学第一文学部英文学専攻卒業、アイルランド国立大学ダブリン校アイルランド文学・演劇学専修博士課程を経て現職。文学博士。専門は身体表象論、演劇論。主な論文に 「Staging Bankruptcy of Male Sexual Fantasy: Lolita at the National Theatre」(Ireland on Stage: Beckett and After所収)、「Not I in an Irish Context」(Samuel Beckett Today / Aujourd'hui 所収)など。