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▼映画評

長谷 正人/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部) 略歴はこちらから

『ヒアアフター』(クリント・イーストウッド監督、2010年)
個人的な経験としての心霊現象

長谷 正人/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部)

 素晴らしい映画だ。しかし、その素晴らしさを説明するのがこれほど難しい映画もないと思う。確かに私たちは、冒頭でフランス人カップルが南洋の島で襲われる津波に圧倒される。しかし、それはパニック映画のようにスペクタクルとして迫力があるからではない。確かにCGで作られた津波が、街を飲み込み、樹木や車や人を押し流していく光景のリアルな描写は圧倒的な迫力がある。しかし私はそこに驚いたのではない。

 むしろ、クリント・イーストウッドは、その津波の迫力を全体として大げさに見せるのではなく、あくまで主人公の女性ジャーナリスト、セシル・ドゥ・フランスが津波に飲み込まれ、どこまでも流されていくという個人的経験として描いている。その津波経験の具体的な等身大性が私の心を揺さぶったのだ。実際、彼女は流される途中で、倒された樹木につかまって難を逃れたと思ったその瞬間に、後ろから流れて来た車にゴツンと衝突されて、気絶して流されてしまう。この演出は、まるで喜劇的コントのようだ。だがまさに、私たちの人生は喜劇的コントのようにできているのではないか。そう考えたとき、私は人生の不思議さの深淵に触れるような思いがした。

 その気絶したフランスは、薄暗がりの彼方に死後の世界らしきものを見てしまう。そこから、この映画の主題である、臨死体験や死後の世界が現れてくる。だが、この主題に対しても、イーストウッドの姿勢はまったく同じである。大げさなイメージとして、あるいは特異な恐ろしい経験として霊的現象を描くのではなく、ごくふつうの個人的な体験としてそれを描くのだ。例えば、相手の手を握っただけで、その人が思っている死者と交信ができてしまう二人目の主人公の霊能者マット・デイモンは、その能力のせいで、料理教室で知り合って好意を抱いた女性の、過去の忌まわしい記憶を、死んだ彼女の父親との交信から知ってしまい、彼女に振られてしまう。だからこの霊能力は自分の人生を曇らせる「呪い」でしかないと、彼はひたすら嘆く。

 つまり、この映画では、死後の世界や霊的現象があるかどうかが客観的に問題にされるわけではない。あくまでそれは、個々人の人生と関わる問題なのだ。例えば三人目の主人公の双子の弟の少年は、自分の代わりに買い物に出かけて交通事故で死んでしまった兄に、どうしても会いたくて、霊能者たちの間を渡り歩き、ようやくデイモンに出会う。だから霊的現象は、起きてほしいと誰かに切実に思われるからこそ現れるのだ。

 そうやってイーストウッドが霊的現象を個人的な思いとして描くことで、この映画では一つ一つのさり気ない場面がとても愛おしい場面になっている。一人一人がそこに生きていることが奇跡のように私には感じられる。例えば、アルコール依存症の母親と少年が別れを惜しむ室内の場面で、背景の窓ガラスの向こうには雨が降っている。話し終わって二人が建物を出てくると、空は晴れあがっていて、光が二人の顔に当たり、風が二人の髪の毛を揺らす。この場面の天候など何でもよかったのかもしれない。だが偶然に買い物に行っただけで、人間は運命を狂わせるのだ。それは偶然であっても取り返しがつかない。だからこの場面で偶然のように雨が降るとき、私は、その雨は必然的に降ったのだと感じる。そのときこの映画は、私にとって、ある種の霊的な現象になっているのだと思う。

長谷 正人(はせ・まさと)/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部)

早稲田大学第一文学部社会学専攻卒業、大阪大学大学院人間科学研究科中途退学。千葉大学助教授などを経て現職。
専門は映像文化論、コミュニケーション論。
主著として『映画というテクノロジー経験』(青弓社)、『映像という神秘と快楽』(以文社)、『コミュニケーションの社会学』(共編著、有斐閣)、『テレビだョ!全員集合』(共編著、青弓社)など