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演劇におけるフィクションの力と現実の変容 第四回

坂内 太/早稲田大学文学学術院准教授(文化構想学部)

坂内 太/早稲田大学文学学術院准教授(文化構想学部)  略歴はこちらから

 原発から二十数キロの地域で知り合った技師の男が、毎日、自分の線量計で検出した値を教えてくれた。不安になるような値だった。汚染されたに違いない泥土をひたすら撤去する作業の合間に、地元の人に案内されて付近一帯を回った。見渡す限り瓦礫と石だらけになった光景と、たった一本だけ残った防風林の姿は、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』を思わせ、その後、この戯曲の冒頭の一文がずっと脳裏を離れなかった。新国立劇場で軽快な新訳が上演されて、この劇に新たな注目が集まった時期でもあった。

 『ゴドーを待ちながら』は、“Nothing to be done.”という短い一文で幕を開ける。劇の冒頭で、靴がどうしても脱げずに失望する男の台詞として、まずは、自分の身の回りの世話に始末をつけられない無力な登場人物が、「なんにもできない」と嘆息する言葉として発せられる。

 だが、登場人物のレベルでは悲観的な響きも、演じる俳優のレベルでは一転して滑稽な意味を発揮する。芝居の幕が上がり、役者が開口一番、舞台上で「なんにもすることがない」と言うのだから、既存の演劇の約束事がすでに無効だと感じる慧眼な観客にとっては、この上なく爽快な笑いをも引き起こすものだっただろう。演劇や演技のコードの破綻を自ら舞台上で指し示すものとして、冒頭の一文は実に秀逸だと思われる。(ベケット自身によるフランス語版でも « Rien à faire »で、やはり「なんにもすることがない」)。

 だが、この二つのレベルを超えて、人としての俳優や劇場を含む社会全般の状況を考えてみれば、再び反転して陰惨な意味を発動し、観客の笑いも憂鬱な瞑想に押し戻されかねない。ベケットは、同じくアイルランド出身の作家ジェイムズ・ジョイスと交流して影響を受けたが、戦間期に出版されたジョイスの『ユリシーズ』や『フィネガンズ・ウェイク』が、何もかもを含む世界の目録であるとすると、大戦後の『ゴドー』では、目録のほぼ全ての項目が灰燼に帰している。個人と社会とを貫く途方もない荒廃を前にして、本来なすべきことが余りにも多く、かえって「何一つ出来はしない」という感覚を抱くのは、現在の自分にも実感として分かる。

 しかし、それでは何故、“Nothing to be done”という表現が選ばれたのか。なぜ「私」を主語にして、「私には何も出来ない」という表現ではいけなかったのか。人為がことごとくつまずき、もはや人間は有意味な事を成し得ないという陰鬱な思いがする時でさえ、なおも人として行為する意志を捨てていないがゆえに “I can't” という言葉は選ばれなかったということはあり得るだろう。そうした意志を持つ人間と、とことんまで荒廃した広大な空間を含む世界を把握する言葉として、ベケットが表現した短文は極限まで無駄が無く、また非情なまでに正確だと思う。

 とはいえ、さらに冷酷な解釈の余地は残されている。冒頭の一文は、『ゴドー』という作品世界を作った創造主が、予言としてあらかじめ最初に与えておく言葉のレベルで受け止めることもできるからである。つまり、いかに人間が意志を持って奮闘したところで、以後の行為にいかなる意義もないという予言として働きもする。確かに、この劇の登場人物達は、行き当たりばったりのその場しのぎを重ねて、最終的な結末が訪れることを待ちつつ、時間を埋めているだけのような気配もある。では、冒頭の一文に続くものが、切迫した登場人物達の所作であれ、舞台上の俳優の演技であれ、世界における人間の行為であれ、それらはこの予言の単なる実現に過ぎないというヴィジョンが込められているのだろうか。

 ベケットは、『ゴドー』の登場人物の一人が、不用意に開いていたズボンの前のボタンをはめる時、「人生のちっぽけなことも軽んじてはならん」と言わせている。人の営みに相応の艶笑を含んだユーモアで、この劇作家は、通俗と高尚、猥雑と深遠を同時に表現するジョイス譲りの態度を示す。そして、無情な予言の成就のようなプロットが明確な像を結びそうになる時、空虚に逆らう小さな楔のような言葉を差し挟む。こうした劇作家の言語的な振る舞いは、演劇の役割についての検証を内に含んでいるに違いない。広大な現実の荒廃を前にして、芸術の美的構築物が果たし得る役割もまた、こうした細部に自己言及的に託されていただろう。

坂内 太(さかうち・ふとし)/早稲田大学文学学術院准教授(文化構想学部)

早稲田大学第一文学部英文学専攻卒業、アイルランド国立大学ダブリン校アイルランド文学・演劇学専修博士課程を経て現職。文学博士。専門は身体表象論、演劇論。主な論文に 「Staging Bankruptcy of Male Sexual Fantasy: Lolita at the National Theatre」(Ireland on Stage: Beckett and After所収)、「Not I in an Irish Context」(Samuel Beckett Today / Aujourd'hui 所収)など。