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早稲田評論

▼映画評

長谷 正人/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部) 略歴はこちらから

『大鹿村騒動記』(2011年、阪本順治)
俳優たちが初々しく演技するという魅惑

長谷 正人/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部)

 瑞々しい傑作だ。まるで映画がいま生まれたかのような初々しい喜びに満ちている。馬鹿げた感想かもしれない。何しろここに出演しているのは、原田芳雄、大楠道代、岸部一徳、佐藤浩市、石橋蓮司、小倉一郎、でんでん、三国連太郎、小野武彦といった芸達者な俳優たちばかりだからだ(それにしても良くこれだけの俳優陣を揃えたものだ)。にもかかわらず、彼らによって何かの虚構世界がうまく演じられたというよりも、演じている彼らの身体性が、なまなましくドキュメンタリーのように捉えられている。それが、この映画の何とも言えない魅力である。

 だから、この映画には確かにストーリーがあるのだが、観客としてはあまり本気で意味を追いかける気にならない。治さん(岸部一徳)が、幼馴じみの善さん(原田芳雄)の奥さん・貴子さん(大楠道代)と駆け落ちして大鹿村を去ったのが十八年前という設定。ところが最近になって大楠が認知症を患ってしまって岸部のことを昔の夫・原田と間違えるようになる。それで仕方なく彼女を連れて東京から十八年振りに故郷に帰ってきて、もう自分の手に負えないから「返す」と原田に言う。むろん、原田はふざけるなと怒って殴りかかるが、大楠に水をかけられて水入りとなる。この三人がどうやって和解していくかが、大鹿歌舞伎の演目とも重なられて、滑稽に描かれていく。

 このストーリーを真面目に演出すれば悲劇になりえたかもしれない。しかし阪本順治監督は決してそうしなかった。いわば役者たちの身体的魅力に委ねたのだ。例えば、認知症になった大楠道代がご飯を食べたことを忘れて食料を漁る場面や万引きをする場面が出てくる。考えようによってはいずれも深刻な場面だが、しかし大楠道代という役者の持っている軽やかな魅力が、これらの場面をまるで喜劇のように見せてしまう。あるいは、「善ちゃん」、「治ちゃん」と幼いころのまま呼び合う原田と岸部のかけあいの呼吸の合わせ方の素晴らしさに誰もがうっとりしてしまう。ストーリーなどどうでも良くなってしまう。

 だからこそクライマックスに、登場人物が全員で演じる大鹿歌舞伎が置かれているのだ。現実にこの村歌舞伎を演じている村人たちを観客=審査員にして、プロの役者たちがにわか仕込みで歌舞伎を演じるというユニークな場面である。そこではベテランの役者たちが、まるで芝居の発表会に臨んでいるかのような初々しい緊張感に満ちて演技していて実に素敵だ。

 この初々しい演技の魅惑を通して私は、私たちのなかに眠っている「演技」への欲望を想起させられたような気がした。現代社会では、日常生活は演技で構成されると誰もが社会学者のように知ったかぶりをして言う。しかし、周囲に期待されるキャラを演じる人びとは、あまり楽しそうに演じているようには見えない。まるで演技することは、他人の視線に身を委ねる不自由さであるかのようだ。それではちっとも楽しいはずはない。本当は演技することは、日常生活では恥ずかしくて言えないことを、格好つけて声を張り上げて言うことではないか。演技する自分の身体を、隠すことなく世界に向かって投げだすことではないか。この映画はそうした演技することの忘れられた魅惑を、観客に向かって生き生きと伝えてくれる。

長谷 正人(はせ・まさと)/早稲田大学文学学術院教授(文化構想学部)

早稲田大学第一文学部社会学専攻卒業、大阪大学大学院人間科学研究科中途退学。千葉大学助教授などを経て現職。
専門は映像文化論、コミュニケーション論。
主著として『映画というテクノロジー経験』(青弓社)、『映像という神秘と快楽』(以文社)、『コミュニケーションの社会学』(共編著、有斐閣)、『テレビだョ!全員集合』(共編著、青弓社)など