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「違和感」を噛みしめる―『じ め ん』『ベルリンから鴎』『曼珠沙華』『おばあちゃん女の子』

間瀬 幸江/早稲田大学文学学術院助教

間瀬 幸江/早稲田大学文学学術院助教  略歴はこちらから

 演劇が災害に対して取り得る視座を考えようと、「災害と演劇」を大会テーマに掲げて開催された、2011年度日本演劇学会秋の研究集会(12月3-4日、早稲田大学演劇映像学連携研究拠点共催事業)。いくつかのパネルや発表の質疑で、「違和感」という言葉が一度ならず聞かれた。なかなか収斂に向かわぬ議論が実は非常に興味深かった。災害をめぐっては、複数の異なる視座が互いにコンフリクトを起こすが、そのコンフリクトそのものから目をそむけず、表面化・意識化し続ける他はないと改めて感じた。そもそもこの半年というもの、生活レベルでもこの「違和感」なるものから逃れられない。常に思考回路のスイッチを切れない気分で疲れるが、この疲労感を惰性的ではない形でどうにか自覚し続けられないものか。

 F/T11フェスティバル・トーキョーのオープニング演目のひとつ、飴屋法水演出の『じ め ん』(9月16-17日、都立夢の島公園内多目的コロシアム)。地面に触れることに恐れを覚えるようになった2011年の日本を生きる観客を前に、パフォーマーがコロシアムを素足に近い状態で歩いたり、土を素手で掘り返したりする。さらには『日本沈没』を彷彿させるような日本国不在の未来地図が、『2001年宇宙の旅』のモノリスに見立てられたスクリーンに映し出される。ライバルをたたき殺すための道具として類人猿に用いられた動物の骨と、核を開発した人類が飛ばす2001年の宇宙船とを結び合わせる、キューブリックの不気味な謎かけが現実味を帯びて迫ってきた。一方、早稲田大学で行われた多和田葉子・高瀬アキによるパフォーマンス「ベルリンから鴎」(11月22日、早稲田大学小野記念講堂)では、多和田の朗読と高瀬のピアノ/朗読とが非連続的な律動を刻む掛け合いに続いて、2017年の日本の姿が、多和田の朗読「不死の島」により紡がれる。電力供給量の減少が原因となって人々の暮らしが激変、人物の動きがきわめて緩慢な「夢幻能ゲーム」が流行しているという日本。奇妙な律動の掛け合いにより聴覚の感度が引き上げられたところに、近未来の日本の異質なイメージが既視感にも似た現実感をもって立ち上がる。いずれも、「違和感」の背景をラディカルに顕在化させる、チャレンジングで刺激的な作品であった。

 他方、「違和感」を「違和感」と認めたうえで、それに向き合うというよりむしろ革新的に超越するかのような斬新さが際立ったのが、阿藤智恵作『曼珠沙華』(9月30日~10月5日、Pカンパニー)と、横浜聡子の映画作品『おばあちゃん女の子』(配給:リトルモア)である。『曼珠沙華』は男性二人だけが登場する30分の小品であるが、記憶も視界も共有していない二人が、「分かり合い」や「すり合わせ」を可能にするものとは異なる思想体系によって「いま・ここ」の時空間を共有する特異な世界観の提示が鮮やかで、衝撃的でさえあった。「あなた」は永遠に他者ではあっても、排除されるべき異物として立ち現れることはない。『おばあちゃん女の子』は映画作品だがあえてこの演劇評にて触れたいのは、この作品が、寺山修司的な意味での「安全でない客席」を、劇場内に創出していると感じられたからである。横浜作品はほかに、『ジャーマン+雨』と『ウルトラ・ミラクル・ラブストーリー』を観たが、いずれも初見のあとは身体がひどく重く感じられるのに、なぜか忘れられず、日数を追うごとにもう一度見たくなった。安穏と客席に座っているだけでなく、その作品世界に自分なりに「関わって」みたくなる感じ、とでも言えばいいだろうか。「朝のトイレのときドアを頑として開け放つ女」との結婚生活をまるごと愛する、という破天荒な脱臼ぶりに、肩の力が一瞬なりともスッと抜ける。

 「違和感」を自覚しつつ、「違和感」を別の角度から見つめて、そんな自分をさらに距離化する。そういう表現に出会うたび、少しは背筋を伸ばしてみようかと思えた2011年の、師走を迎えている。

間瀬 幸江(ませ・ゆきえ)/早稲田大学文学学術院助教

早稲田大学第二文学部文芸専修卒業。早稲田大学文学研究科、リヨン第二大学文学部博士課程を経て現職。専門はフランスを中心とした西洋演劇テクスト論、演出論。著書として『小説から演劇へ―ジャン・ジロドゥ 話法の変遷』(早稲田大学出版部)、主な論文として「フジタとジロドゥ――知られざる《邂逅》をめぐって」(『比較文学年誌』第47号所収)など。