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小沼 純一/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

歌舞伎の中の音、江戸人の“はなやぎ”

小沼 純一/早稲田大学文学学術院教授

 “はなやぎ”という語をつかうことはまずない。知らないことはないけれど、自らがつかう日々の、あるいは文章での語彙のなかにはない。それが、ふと、浮かんでくる。

 仮設の門をはいると、たとえそれがある程度人為的なものかもしれぬとおもいはしても、三々五々集まってくる人たちのあいだから”はなやぎ”は匂いたってくるようでもあるのだった。

 平成中村座、五月大歌舞伎、昼の部。江戸の芝居見物を体感とのことで、改修中の歌舞伎座、あるいは国立劇場、新橋演舞場といった常設とは異なった環境である。靴を脱ぎ、座った席は、隣りのひとと肘掛けもなく、接しそうになる。

 歌舞伎見物は、わたしにとって、コンサートや現代劇と違って、けっして日常的ではない。年にせいぜい数回足をはこぶ程度で、それも大抵は母のお供だ。しかし、日常的ではないゆえに多くの発見がある。それも音・音楽と場にかかわりのなかで、だ。芝居の筋はもちろん中心にあるし、それをたどってゆくおもしろさがある。舞踊の所作、瞬間瞬間の役者の演戯、見得をきるみごとなかたちも見過ごせない。と同時に、そうした視覚的なことどもとともにある音の、音楽のありようが、近代化、つまり西洋化ともグローバル化とも言い換えられる現在の舞台芸術のありようを再考させる機会としてある。

 幕がさーっと開く。

 上手にならぶ三味線が音を発し、竹本が語り始める。

 客席からすると、右から、音はやってくる。つづいて役者が身ぶりとともに声を発するのは、舞台のほぼ中央。この中央からと、右からとの立体的な、そして容易に融けあわぬ、対立的な、それでいて相補的な音のありようが緊張を持続させてゆく。ときに、音が途切れるのも、またべつの緊張を生む。すかさず飛びこんでくるのが、客席、大向こうからの「なかむらや!」との、「なりこまや!」掛け声。

 そして、何もないのかとおもっていた、忘れていた下手の黒御簾から、胡弓のかぼそくひょろひょろした音が、鉦のやわらかくも金属的な余韻が、ひびく。舞台は横に広いから、それぞれの発音の場ははなれているがゆえの分離が際立っている。

 役者それぞれの声音はもちろん、立ち回り、所作とともにドラマをもりあげる舞台袖にあらわれるツケの激しい音は、歌舞伎見物の醍醐味のひとつだ。筋の展開にメリハリをつけるのみならず、役者の身体と動きをストップモーションのように観客の網膜に焼きつけるのは、こうした音があってこそ。

 こうした舞台の音のみならず、仮設だったからだろう、途中、舞踊のあいだ、外から大きな雷の音が何度もひびき、持続する雨の音が屋根を打ちつづけていた。

 昼の部をしめくくる『め組の喧嘩』では、力士と鳶の喧嘩が扱われる。まさにエンディング、両者の和解がなされたときに、何と舞台の後ろが開き、三社祭の神輿が大勢の担ぎ手によって舞台にはいってきたのである。

 掛け声とともに、観客は、舞台のむこうにながれている隅田川の、浅草の風景を見た。

 昨年、震災のためにおこなわれなかったために二年ぶりとなる祭り。しかも神輿は新しくなり、これが初のお目見えという。しかも、である。先ほどの雨はどこへやら。浅草の空はすっかり晴れている。きつねにつままれた、とはこのことか。

 夜あるいはマチネで演劇やコンサートに行くのとはあきらかに異なった、午前から芝居小屋にでむくハレの体験。たまたまこの仮設劇場に足をはこんだがゆえに、歌舞伎のなかにあるさまざまな音・音楽のみならず、小屋そのものが楽器に、音のうつわになってひびかせる自然の音を、江戸人の”はなやぎ”を、わたしは体験できたのかもしれない。

小沼 純一(こぬま・じゅんいち)/早稲田大学文学学術院教授

1959年東京生まれ。学習院大学文学部フランス文学科卒業。音楽批評・音楽文化論。

第8回出光音楽賞(学術・研究部門)受賞。
主な著書に『著書に『武満徹 音・ことば・イメージ』『魅せられた身体 旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』『ミニマル・ミュージック』(以上、青土社)、『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)。