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早稲田評論

▼演劇評

ループする日常から抜けるための儀式
~マームとジプシー『マームと誰かさん・ふたりめ 飴屋法水さん(演出家)とジプシー』~

間瀬 幸江/早稲田大学文学学術院助教

間瀬 幸江/早稲田大学文学学術院助教  略歴はこちらから

 「マームとジプシー」の藤田貴大が、清澄白河のSNACで「誰かさん」とのコラボレーションで作品を発表するシリーズに取り組んでいる。二回目の「誰かさん」は飴屋法水(2012年6月1日~3日)。チケットは「瞬殺」で売り切れ。開場四時間前から並んで当日券を入手、立ち見で入った。約一時間の上演時間に詰め込まれるのは、車にはねられたある男の、最後の三秒間の物語である。現場に居合わせた少女(彼女の語りが作品の枠を形作っている)とOL二人組の視点がそこに重なり、それぞれの三秒間が、ひたすら反復される。

 前回の「誰かさん」(大谷能生)ではSNACの入り口は閉まっていたが、今回は、シャッターが開け放たれて、大破した黄色い車が場内に突っ込んだかのように止まっている。開場後観客が着席し開演するまでの30分間、「なんじゃこりゃ」とばかりに、道行く人が通り過ぎるのが見えている。出演者やスタッフにの中には観客に紛れている風の人もいる。藤田貴大は、本来なら予測不能なはずのこうした「現実」「日常」といったものが、開演後に延々続くことになる三秒間のループに連動し絡め取られるよう、きわめて緻密に仕掛けを施す。

 このループに揺さぶりをかけるのが、後半、止まった自転車にまたがっては殉教者のように無抵抗に倒れ続ける飴屋の動きである。あの転倒の反復の帰結だけは、誰にも分からなかった。彼が大けがをして舞台が中断される可能性も、あったと思う。抜け出せないループに取り込まれ、そこに死のにおいをかぎ取っていた観客は、ガシャン、ガシャンと音をたてて転んでは立ち、転んでは立つ飴屋法水を凝視し「飴屋さん、大丈夫だろうか」と不安に駆られ、そこで、気づく。本当の死臭が発せられる可能性は、ループする三秒ではなく、けがをするかもしれない身体だけにしかないと。

 そして幕切れ近く、自転車から離れて椅子に腰を下ろした飴屋の口から「私は宙を舞いました」と一人称の死が語られる。車にはねられる身体が痛み傷ついたのと同様、反復する転倒により痛み傷ついた身体から告白される一人称には、確かに当事者性がある。観客は、死んだという男は、なるほどこの男なのかもしれないと感じる。しかしその憑依は、完成しない。この「私」には、ごく少量の嘘がある。少量なのに、消し込めない。死んだ男その人が、ここにいるのだという印象を強く抱かされながらも、この「ごく少量」のせいで、観客はその印象を否定することができる。倒れ続けた飴屋の身体が、ループを逃れていたからである。死は本人には語れない。死を当事者として語ることは、誰にもできない。

 青柳いずみ扮する少女は、飛び降り自殺をしようとして歩道橋の上に上がっていて、そこで男がはねられ地面にたたきつけられたのを目撃した。彼女は、歩道橋から飛び降りなかった。歩道橋をただ「降りた」。そこでこの作品は終わった。

 けれども観客の多くが、帰る道すがら、あの三秒がまだ続いていることを実感したと思う。街路樹も、電信柱も、駅のホームも、固まって見えた。飴屋法水の声も、青柳いずみの声も、異界から響き続けていた。それほどまでにべっとりと強力だった三秒のシールドに、ほんの一瞬とはいえ穴をあけてしまえるほどに、倒れ続ける身体は、四秒目の未来を志向していたのだと、いま振り返ってそう思う。

間瀬 幸江(ませ・ゆきえ)/早稲田大学文学学術院助教

早稲田大学第二文学部文芸専修卒業。早稲田大学文学研究科、リヨン第二大学文学部博士課程を経て現職。専門はフランスを中心とした西洋演劇テクスト論、演出論。著書として『小説から演劇へ―ジャン・ジロドゥ 話法の変遷』(早稲田大学出版部)、主な論文として「寺山修司におけるジャン・ジロドゥからの影響―ラジオドラマ『大礼服』論」(『演劇学論集』紀要54号所収)、“Les sons sauvent les vies ; Souvenirs acoustiques de 4.48 psychose de Sarah Kane mis en scène de Norimizu Ameya”, Théâtre/Public 197, 2010.「フジタとジロドゥ――知られざる《邂逅》をめぐって」(『比較文学年誌』第47号所収)など。