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藤井 仁子/早稲田大学文学学術院准教授(文学部) 略歴はこちらから

「いい顔」という呪い
土本典昭の『医学としての水俣病』

藤井 仁子/早稲田大学文学学術院准教授(文学部)

 原田正純氏が亡くなった。長年、水俣病の患者たちが暮らす現場を一軒一軒訪ね歩いて診断と研究にあたり、胎児性水俣病の存在をも立証した讃嘆すべき医師である。だが、土本典昭が監督した水俣に関する一連のドキュメンタリー映画を見てきた人間にとっては、原田氏といえば何よりもまず、その巨大な連作の主要登場人物の一人として記憶されていることだろう。『不知火海』で胎児性患者の少女から頭を手術すれば治るのかと問われ、心優しくも動揺する原田氏の声と姿を忘れられない人は多いに違いない。

 その原田氏の追悼企画として、去る七夕の日、アテネ・フランセ文化センターで土本の『医学としての水俣病』三部作が一挙上映された。日本の、いや世界の戦後ドキュメンタリー映画史に燦然と輝く土本の作品歴において、この傑作が占める重要な位置については繰り返すまでもないだろう。ここではただ、久方ぶりに三部作をまとめて見たことで気づかされた、ある一点についてだけ書きたい。そのことが、私自身を含む誰もがこれまで土本映画の美質として語ってきたものに対し、根本的な再考を迫ることになると思うからだ。

 この作品で原田氏は、胎児性水俣病に見られる典型的な症状として、原始反射などとともに強迫笑いを挙げている。乳幼児が誰彼なしに見せるような、たんなる反射としての笑いである。迂闊にも私はこれまでこの事実を深く受けとめてこなかったのだが、そうだとすれば、土本の映画で胎児性患者たちが見せるあの素晴らしい笑顔の数々は、彼らが望まずして身体に摂りこんでしまった水銀ゆえの症状かもしれないということになる。

 問題は、胎児性患者だけにとどまらない。土本の映画は、何よりも患者たちの「いい顔」を記録することで見る者の感情と思考を大きく揺さぶってきた。われわれが簡単に犠牲者のレッテルを貼る人々が、まずもって海に生きる生活者であることを余すところなく示したのである(ゆえにその代表作は「患者さんとその世界」と副題されなければならなかった)。なるほど、人生の風雪は「いい顔」を鍛えあげるだろう。だが、そんな「いい顔」をその持ち主たちのいったい誰が望んだというのか。そんな「いい顔」を手に入れるよりも、何の取り柄もない、少しも「映画的」ではない平凡な顔のままで、少しも「映画的」ではない穏やかな暮らしをただ生き、死んでいくことだけを望んでいたとしたらどうか。

 考えてみれば当たり前のこの事実に今さらながら気づかされ、人の不幸から「いい顔」だけを掠め取る映画というものの罪深さにあらためて慄然とするしかなかった。同時に、映画のこの罪深さをあの土本が自覚していなかったとも私には思えないのである。では、土本典昭を語る言葉をいかにしてそうした地平に向けて開くのか――後にはこの問いが残される。

藤井 仁子(ふじい・じんし)/早稲田大学文学学術院准教授(文学部)

京都大学大学院人間・環境学研究科博士後期課程単位取得退学、立教大学文学部助手などを経て現職。専門は映画学、特に日本映画と現代アメリカ映画。映画評論家としても活動。
編著書に『入門・現代ハリウッド映画講義』(人文書院)、『甦る相米慎二』(共編、インスクリプト)、共訳書に『わたしは邪魔された――ニコラス・レイ映画講義録』(みすず書房)など。