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▼演劇評

企画と作品の境界侵犯力
――劇場体験としての「濱口竜介レトロスペクティヴ」

間瀬 幸江/早稲田大学文学学術院助教

間瀬 幸江/早稲田大学文学学術院助教  略歴はこちらから

 劇評の欄で映画上映について述べるのは不見識の謗りを逃れまい。しかし今回はあえてそれをやる。7月28日から8月10日まで、オーディトリウム渋谷で行われた連続レイトショー企画「濱口竜介 レトロスペクティヴ」。詳細は公式サイトをご覧頂くとして、これをあえて「劇評」の枠で紹介するのは、この企画が持っていた、いっそ演劇的とも言うべき一回性・現前性の面白さに言及したいからだ。

 上映直前の監督挨拶と、上映後のゲストトーク、さらには作品内で実際に使われた曲の生演奏など、客席との一体感を演出する工夫に加えて、異なる作品をローテーションで上映しているため、濱口作品への興味が大きい観客ほど、リピーターになりやすい。また、企画の公式アカウントからの積極的なリツイートが、リピーターの当事者意識を煽る。互いに声を掛け合わぬまでも「この人はこの前も見かけたな」とひそかに意識するような、他人以上知り合い以下の距離感が醸成されていく。

 そして、こうした独特の「親密な」状況と相互に作用し、客席を生き物のように毎日変化させるのが、濱口作品特有の境界侵犯力である。恋愛や友情など、フィクションのプロットとしてはありふれた人間関係が扱われているにもかかわらず、その「ありふれた」ものの描かれ方がまったく「ありふれて」いない。近しい友人との間で傷つき傷つけられてできた心の痛みが、重箱のすみをつつくように丁寧に映像に収められ、かといってそれは飯粒のように簡単に箸でつまみ取れるものではなく、むしろその「飯粒」のねばりが、スクリーンのこちら側にいる私たちの心もまた日々の暮らしの中で同じように傷ついているという逃げ場のない現実をあぶり出す。鑑賞後に客電の入った劇場で観客は、たった今スクリーンの向こう側にいた人たちがきっとこちら側にもいるのだと思い知り、どこか身の置き所に困るような照れくささを感じるのである。

 スクリーンに映し出された「現実」によってスクリーンのこちら側の現実が侵犯され、境界が消滅するかのようなこの感覚は、映画の客席という「安全地帯」で通常抱くものよりも、予想外の出来事に路上等で遭遇し強制的に当事者にさせられるときのそれに近く、この意味において(広義の)演劇的だと感じた。そういえば期間中四回にわたりオールナイトで上映された長編大作『親密さ』(四時間半)の中心的主題もまた演劇であった。ツイッターのTLに、『親密さ』上映終了後の路上で、渋谷の夏の早朝という普段なら暑苦しいばかりの日常に曰く言い難い愛おしさを感じたとの意見が多く並んだことも、作品の持つ境界侵犯力の強さを物語る。

 濱口監督は目下、三陸沿岸部に暮らす人々の津波をめぐる「対話」をカメラに収めた映像作品『なみのおと』の共同監督であった酒井耕監督とともに、宮城県に拠点をおき東日本大震災復興のドキュメンタリー映画の制作準備にかかっているという。この映画制作のための話し合いの場であるUSTREAM番組「かたログ」(3がつ11にちをわすれないためにせんたー、通称「わすれん」サイトにて制作、アーカイブ化)で両監督は、本来「かたち」しか撮れないはずのカメラというツールが、「かたち」とは別の何かをも撮りこむ可能性について、既存の大きな言説への連絡を避け、一個人の実感を吐露し合うかのように言語化を試みている。答えを一つに収れんするのではなく常に問いを発しながら被写体である語り手に関わろうとする両監督の誠実な「ぎこちなさ」は、これもまたまったく「ありふれて」おらず、私はそこにも「演劇的」という形容を敬意をもって付与したくなるのである。

間瀬 幸江(ませ・ゆきえ)/早稲田大学文学学術院助教

早稲田大学第二文学部文芸専修卒業。早稲田大学文学研究科、リヨン第二大学文学部博士課程を経て現職。専門はフランスを中心とした西洋演劇テクスト論、演出論。著書として『小説から演劇へ―ジャン・ジロドゥ 話法の変遷』(早稲田大学出版部)、主な論文として「寺山修司におけるジャン・ジロドゥからの影響―ラジオドラマ『大礼服』論」(『演劇学論集』紀要54号所収)、“Les sons sauvent les vies ; Souvenirs acoustiques de 4.48 psychose de Sarah Kane mis en scène de Norimizu Ameya”, Théâtre/Public 197, 2010.「フジタとジロドゥ――知られざる《邂逅》をめぐって」(『比較文学年誌』第47号所収)など。