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▼音楽評

小沼 純一/早稲田大学文学学術院教授  略歴はこちらから

小さな場での、かぎられた人たちによる音楽

小沼 純一/早稲田大学文学学術院教授

 ステージがあり客席があり、演奏者と聴き手がはっきりと分離しているコンサートなるものにどこか飽きを感じはじめたのはいつごろからだったろう。それぞれが何を感じ、自らが何を持ち帰るかはちがうにしても、すべてがきっちりと企画され、人は一定の時間音楽に接し、会場をあとにする。音楽を提供する側がいて、享受する側がいる。その図式は大きくあるにしろ、双方がもうすこし近寄るようなかたちがありえないものか。

 ステージにあたるものはない。ピアノもない。椅子は揃えることができる。そんな北欧家具とキリムを販売するROGOBAという商業スペースで小さなコンサートをやってみようとしているのだがと話を聞いたのは、2009年の暮れあたりだったろうか。わたしは今回、かならずしも客観的な立場から語ろうとはしていない。企画と運営に携わってさえいる。だが、演奏家に声をかけ、進行上のやりとりをする以外はすべてまかせていて、こちらから註文をつけることはない。どういうことが起きるのか、こちらも当日にならないとわからないし、それゆえの依頼をしている。

 11月16日(金)、第18回の公演は、箏の沢井一恵による「没絃琴~二十五絃、瑟から一絃琴まで~」。

 通常の十三絃とともに古代中国の楽器を復元した二十五絃の瑟、宮城道雄が考案した十七絃、さらに十七絃のなかの一本の絃のみをつかって一絃琴にみたてるものと、通常の箏によるコンサートとはかなり趣を異にする。ソロはもちろん、詩の朗読(高橋悠治)、尺八(善養寺惠介)との、あるいはコントラバス(齋藤徹)とのデュオのある多彩な音とひびきを、ライヴハウスよりもっと演奏家に近いところで音にふれることができ、しかも沢井一恵はアンコールの演奏をするよりも手元にある楽器を積極的に触れてくれるようにと促し、演奏した作品の楽譜を見せ、あとは会場の人たちからの質問を受け、歓談するのである。

 大きな音量で聴衆を巻きこむありようはもちろん現在もある。その場にいる誰もがおなじように演説が聴けるということを目指したナチス・ドイツ由来のPAシステムは、こうしたところに発展してきた。しかし楽器の音というのは、ごく身近なところでしか耳にし得ない音も発する。楽器のなかで共鳴する音のありようだったり、かすかな倍音だったり、ノイズであったり。一段高いステージに楽器や奏者があがってしまうとこうした音は聴き手から遠くなり、鑑賞されるべき抽象的な楽音、音楽が届くことになる。そうした音・音楽のありようはたしかに有効にはたらいてきた。だが、いまでもおなじなのかどうか。

 メディアをとおしての音楽はCDでもyoutubeでもいくらでもある。そうではない音楽のありようが一方でメガ・コンサートだとすれば、他方、ごくごく小さな場での、かぎられた人たちによる音・音楽の共有・分有となるのではないか。そして、そのどちらにもふれ、あいだを行き来することによって自らのなかに形成される音楽のありようをこそ、考えてみたいとおもうのだけれども。

小沼 純一(こぬま・じゅんいち)/早稲田大学文学学術院教授

1959年東京生まれ。学習院大学文学部フランス文学科卒業。音楽批評・音楽文化論。

第8回出光音楽賞(学術・研究部門)受賞。
主な著書に『著書に『武満徹 音・ことば・イメージ』『魅せられた身体 旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』『ミニマル・ミュージック』(以上、青土社)、『バッハ「ゴルトベルク変奏曲」世界・音楽・メディア』(みすず書房)。
新刊に『オーケストラ再入門』(平凡社新書)。