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「読む」ことと演劇――『シャイヨの狂女』を観劇してのよしなしごと

間瀬 幸江/早稲田大学文学学術院助教

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 2013年3月、パリでジャン・ジロドゥの『シャイヨの狂女』(ディディエ・ロン演出)がかかった。ゲルマ二ストだった作家が、ドイツ占領下のフランスで失意のなかで書き上げた遺作で、パリに巣食う「悪人たち」を年老いた「狂女」と呼ばれる奇天烈な女が駆逐する破天荒な夢物語。1945年、占領時代を終えたばかりのパリで初演され、観客たちの喝采を浴びた。実在する「カフェ・フランシス」とその地下にあるという架空の小部屋を舞台としたこの作品の今回の上演場所として、まさしくその「カフェ・フランシス」が面しているアルマ広場に近い、コメディー・デ・シャンゼリゼが選ばれたのはおそらく偶然ではない。テクストに穴が開くほどに読み、初演に関する上演資料アーカイブをあさった私のような人間にとって、戯曲の登場人物たちが闊歩したに違いない広場や通りを経由して劇場に向かうのは楽しい。

 しかし残酷なことに、戯曲を知っているほどに、満足な上演には出会いにくくなる。ロン演出は一貫して、セリフの表層をなぞるコメディータッチの明るさに満ちていた。滑舌のよい俳優たちをそろえた商業演劇らしい分かり易さは、劇場中継をそのままテレビで流す分にはおそらく面白かっただろう。狂女オーレリイは、派手な衣装とメイキャップとで、しきりに観客の笑いを誘っていた。しかし、私が期待したのはあんなコミカルで無粋な老婆ではない。黄ばんだ絹のドレスの裾を洗濯ばさみでたくし上げて泰然と歩む貴婦人然とした佇まい。パリの小市民たちとともに生きる日常を愛し、動植物を愛する、気高き「伯爵夫人」に出会うつもりだった。少しめかし込んで劇場に集ったパリの観客たちはしかし、あのフラットに戯画的な演出を確かに楽しんでいた。もちろん、言葉の壁はある。私が20年来外国語として付き合ってきたフランス語は、母語として幼少時から親しみ、知の言語として高校で深く学ぶフランス語とは肩を並べるべくもない。何回も戯曲を読んでいたからといって、音声化された諧謔に脊髄反射的に反応できるものではない。

 概して戯曲は小説や随筆などに比べて読みにくいものだ。誰がどの台詞をどのタイミングで発語しているのかを脳内で意識的に再生する必要がある。この努力を自らに強いようと思う程度には演劇という文化に当事者意識を持っている人でなければ、読了は苦痛でさえあるだろう。ところが皮肉にも、読書によって掻き立てられた想像力が脳内に立ち上げる上演作品は往々にして、実際に劇場でかかる上演作品よりも「面白い」。それならいっそ読まないほうがいいのか。私はおそらく、こと戯曲が先に出版されている作品に限ってなら、戯曲を読むことと上演作品を見ることのどちらかひとつしか選べないとしたら、前者を選ぶ。戯曲に掻き立てられる想像力に突き動かされて出来上がったイメージは、ほかの誰のものでもない、自分だけの作品だからだ。そして、ごくごく稀にだが、いずれどこかの劇場で、その「自分だけの作品」を正面からぶち壊しに来る上演作品に出会うかもしれないからだ。この「ごくごく稀」にやってくる破壊力がもたらす痛快さを、私はみすみす手放したくなどないからだ。

 かくして、ほんの数日前に見たはずのコミカルなオーレリイのイメージはすでに忘却のかなたにあり、私の脳内には再びあの気高き伯爵夫人のイメージがゆったりと戻ってきている。いずれそれを侵犯し凌駕する強力なイメージと対決する日の到来を信じて、オーレリイは今日も静かに私の中で微笑んでいる。

間瀬 幸江(ませ・ゆきえ)/早稲田大学文学学術院助教

早稲田大学第二文学部文芸専修卒業。早稲田大学文学研究科、リヨン第二大学文学部博士課程を経て現職。専門はフランスを中心とした西洋演劇テクスト論、演出論。著書として『小説から演劇へ―ジャン・ジロドゥ 話法の変遷』(早稲田大学出版部)、主な論文として「寺山修司におけるジャン・ジロドゥからの影響―ラジオドラマ『大礼服』論」(『演劇学論集』紀要54号所収)、“Les sons sauvent les vies ; Souvenirs acoustiques de 4.48 psychose de Sarah Kane mis en scène de Norimizu Ameya”, Théâtre/Public 197, 2010.「フジタとジロドゥ――知られざる《邂逅》をめぐって」(『比較文学年誌』第47号所収)など。