人はなぜ偽史に引かれるのか

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POINT
■江戸時代に作られた偽書をテーマにした 馬部(ばべ) 隆弘著『 椿井文書(つばいもんじょ) 』(中公新書)が今春刊行され、偽史への関心が高まっている

■実際にはなかった出来事が、あたかも事実のように語られる「偽史」の事例は現代にもある。「江戸しぐさ」はその代表例だ

■明治以降の日本では、「義経ジンギスカン説」や「竹内文献」「 東日流(つがる)(そと) 三郡誌」といった偽書に基づく偽史が繰り返し流布してきた

■偽史は「本当の歴史はかくあってほしい」という人々の願望を映す。人々の迷妄を正す意味で偽史研究を進める意味は大きい

 実際にはなかった歴史をまことしやかに叙述したのが「偽史」。正統的な歴史研究からは否定されながら、今に至るまで、偽史は常に一定の人々の支持を集め続けている。なぜ人は偽りの歴史に引きつけられるのか。近世以降の日本に現れた様々な偽史をたどりながら考えてみた。

調査研究本部主任研究員 時田英之

注目を集める『椿井文書』

馬部隆弘『椿井文書』(中公新書)
馬部隆弘『椿井文書』(中公新書)

 偽史の問題をめぐっては、今春刊行された一冊の本が大きな反響を呼んでいる。大阪大谷大の馬部隆弘准教授による『椿井文書』(中公新書)である。同書の主人公は江戸時代の国学者で、山城国椿井村(現在の京都府木津川市)出身の椿井政隆。18世紀から19世紀にかけて活動したこの人物は、近畿一円の神社の由来や絵図、家系図などを大量に偽造したことで知られ、「椿井文書」と呼ばれる文書類は都合数百点に上るとされる。同書はその偽書群の本質に鋭く迫っている。

 ××神社はいかに由緒正しい歴史をもつか。××一族はいかに素晴らしい家柄であるか――椿井文書にはそのような由来が語られるものが多く、当時の人々の依頼を踏まえて作られたことが推察されるという。だが、その作り方は実に巧妙。互いに遠く隔たった土地の文書に同じ人物を登場させて信(ぴょう)性を高める。中世の記録を偽造するのは困難なため、当時の古文書を近世に写した体裁で文書を作る。そうした手法を駆使することで、椿井文書はこれまで相応の信憑性を獲得してきた。

 その結果、戦後刊行された自治体史にも、この文書を根拠とした記述はしばしば取り入れられてきた。そればかりか、この偽文書が今も「町おこし」の材料に利用されている例すらある。馬部氏はそんなショッキングな事実を明らかにしている。

「江戸しぐさ」の虚妄

 偽史は決して過去のものではない――同書が浮き彫りにするのはそんな事実だが、我々の身の回りで「生きている偽史」はまだまだある。その代表格が「江戸しぐさ」。2004、05年当時、公共広告機構(現在のACジャパン)が、江戸しぐさに触れたマナー啓発CMを流していたこともあり、この言葉に聞き覚えのある人は多いのではないだろうか。

 人口に膾炙(かいしゃ)した江戸しぐさのストーリーとは次のようなものだ。江戸時代、世界的な大都市だった江戸の町人たちは、いさかいを起こさないための独特の所作を身につけており、それらは江戸しぐさと総称された。

 その代表格が「傘かしげ」。傘をさした人が道ですれ違う時、江戸の人たちは傘を外側にサッと傾け、相手が()れないよう気を配った。「時泥棒は十両の罪」という言葉もあり、約束の時間に遅れるのは相手の時間を奪うことで泥棒に当たる、という観念が共有されていた――。

 ところが、江戸しぐさが存在したという主張は、現在ではほぼ確実に否定されている。その虚構性については、偽史研究の第一人者である民間研究家、原田実氏が『江戸しぐさの正体』(星海社新書、2014年)で詳細に論じている。「傘かしげ」についていえば、江戸時代の傘は贅沢(ぜいたく)品で、普通の人は頭にかぶる笠やミノを使っていた。仮に傘を持っていたとしても、それはすぐにすぼめられる和傘なので、すれ違う時はかしげずにすぼめるのが自然。「時泥棒」に関しても、時計など持っていない町人が正確な時刻を知るのは困難で、約束に遅れて泥棒扱いされることなどありえない、というのである。

 原田氏によれば、そもそも江戸時代の文書に江戸しぐさという言葉は全くなく、その存在は、ある人物が1980年代になって主張し始めたのだという。この言葉が世間に知られていなかった点について、信奉者は「江戸しぐさは口伝で継承されてきたから」などと説明してきたが、原田氏はこうした主張に説得力はないと一刀両断する。

 こうした事例を見る限り、偽史を信じてしまう心理はいつの時代でも変わらない。実際、明治以降の日本でも、様々な偽史が世間に広まっていったケースは数多くあった。以下では、その中の主立ったものを振り返ってみたい。

義経ジンギスカン説

小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(冨山房)=国立国会図書館蔵=の本扉
小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(冨山房)=国立国会図書館蔵=の本扉
蒙古の史跡を訪れた小谷部全一郎とラマ僧たち 小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(冨山房)=国立国会図書館蔵=口絵より
蒙古の史跡を訪れた小谷部全一郎とラマ僧たち 小谷部全一郎『成吉思汗ハ源義経也』(冨山房)=国立国会図書館蔵=口絵より

 まずは「義経ジンギスカン説」である。源平合戦のヒーローである源義経は、平家を滅亡させたあと、兄の源頼朝と対立して奥州に逃亡。最終的に1189年、今の岩手県の衣川で自刃に追い込まれた。ところが義経ジンギスカン説によれば、義経は蝦夷(えぞ)地(今の北海道)に逃れ、樺太経由で大陸に渡る。さらには現地のモンゴル人を束ね、ジンギスカン(チンギス・ハーン)としてモンゴル帝国を築き上げたのだという。

 この説自体は江戸時代から存在しており、夏目漱石が明治末に著した『吾輩は猫である』にも、「義経が蝦夷から満洲へ渡った時に」といったフレーズがある。だが、これが一般大衆に広まったのは1924年(大正13年)で、牧師でアイヌ研究家の小谷部全一郎(1868-1941年)による『成吉思汗ハ源義経也』が大ベストセラーになったのがきっかけだった。

 文芸評論家の長山靖生氏による『偽史冒険世界』(筑摩書房、1996年)によれば、その小谷部の論拠は多くが語呂合わせだった。例えば、源義経を音読みすると「ゲン・ギ・ケイ」だが、これが「ゲン・ギ・ス」「ヂン・ギス」と変化していったのだとする。また、ジンギスカンは「ニロンの落人」であったという伝承があるとして、小谷部はこれを「日本」から来たことを意味していると解した。この説は言語学者の金田一京助や、言論界の大物・三宅雪嶺らから即座に反論される。

 それでも、戦後の1958年(昭和33年)には、推理作家の高木彬光が『成吉思汗の秘密』という小説を著して話題を呼んだこともある。この説は、大衆文化の中では一定の影響力を保ち続けてきたのである。

超古代の世界を支配?

長山靖生『偽史冒険世界』(筑摩書房)
長山靖生『偽史冒険世界』(筑摩書房)

 続いて「竹内文献」にまつわる偽史がある。キーマンは竹内巨麿(きよまろ)(1875?-1965年)という宗教者。1910年(明治43年)に天津教という宗教を興した竹内は、後に「神武天皇以前からの歴史を記録した文書を先祖から受け継いでいる」と主張し始める。それが約3000点に及んだという竹内文献で、漢字伝来以前に日本に存在した「神代文字」で書かれた文書、それを漢字やカナに訳した写本などがあったとされる。

 長山氏によれば、そこに描かれていたのは「超古代には日本の天皇が全世界を支配していた」といった突拍子もない歴史だった。それは正統的な皇国史観とは異なるもので、天皇は初代とされる神武天皇以前から既に存在していたと説く。すなわち、神武天皇から始まる現在の皇朝(神倭朝)以前に、日本には天神七代、上古二十五代、不合朝七十三代があった。

 そればかりか、この超古代の日本は全世界を統治する神聖国家で、天皇は「天空浮船」という空飛ぶ船で世界を巡回していた。さらに驚くべきことに、釈迦やモーゼ、キリストといった世界各地の聖人たちはこぞって日本を訪れ、天皇の教化を受けていたのだという。

毎年6月に行われる慰霊祭で、「キリストの墓」を前に盆踊りを奉納する人々(2014年撮影)
毎年6月に行われる慰霊祭で、「キリストの墓」を前に盆踊りを奉納する人々(2014年撮影)

 ちなみに、青森県新郷村には「キリストの墓」と呼ばれているものがあるが、これも竹内文献と関係がある。1935年(昭和10年)、シンパの日本画家・鳥谷(とや)幡山(ばんざん)と現地を訪れた竹内は、現地にあった盛り土に注目。ほどなく、竹内文献の中から「ゴルゴダで処刑されたのはイエス・キリストではなく、弟のイスキリだった。キリストはその後に逃れた日本で没した」という内容の文書が出てきたと言いだし、この盛り土をキリストの墓だと断定した。

 いかにも奇想天外な話だが、実はこうした主張も決して忘れ去られたわけではない。オカルトファンなどの間では「日本には超古代文明があった」といった文脈で、竹内文献をめぐる話はしばしば取り上げられてきた。

 例えば、竹内文献には「超古代にはとても軽くて強く、絶対さびない金属ヒヒイロカネがあった」との記述があり、後にオウム真理教の麻原彰晃は東北にヒヒイロカネを捜索にいったという逸話がある。竹内文献は意外なかたちで現代社会にも影響を及ぼしているのだ。

東北にあった一大王国

斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌』(集英社文庫)
斉藤光政『戦後最大の偽書事件「東日流外三郡誌』(集英社文庫)
遮光器土偶のレプリカ。「東日流外三郡誌」では荒覇吐神の姿を写したものとされる
遮光器土偶のレプリカ。「東日流外三郡誌」では荒覇吐神の姿を写したものとされる

 一方、戦後最大の偽文書として知られるのが「東日流外三郡誌」だ。事の始まりは終戦直後。青森県に住んでいた和田喜八郎(1927-99年)という人物が「自宅の天井裏から大量の古文書を発見した」と主張し始める。その代表格が全部で368巻あるという東日流外三郡誌で、彼はこれを18世紀に編纂(へんさん)された原本を明治以降に先祖が書き写したものだとした。

 1975年になると、青森県市浦村(現在は五所川原市)が「市浦村史資料編」としてこの文書の刊行を開始する。お役所のお墨付きを得た形となったことで、以後、この文書は古代史ファンの注目を浴びる。

 その内容は「古代の津軽地方には大和朝廷に対抗する一大文明が栄えていた」というもので、加えて知られざる日本の古代史も描かれていた。それによれば、古代の日本には様々な勢力が割拠しており、畿内には邪馬台王国があった。ところが九州から東征した日向の高砂族は邪馬台王国を滅ぼしてしまう。邪馬台王国の王たちは津軽に逃げ延び、現地勢力と混血した末に「荒覇吐王国」を建てる。

 荒覇吐というのは彼らの神の名でもあり、縄文時代の有名な遮光器土偶はこの神をかたどったものだとされる。荒覇吐族の勢力はその後も西方の大和朝廷と抗争を繰り広げつつ存続していくが、14世紀の天災をきっかけに衰微していったのだという。

 当然、多くの研究者はこれを疑問視したが、一部にこれを真正の古文書とする古代史研究者もおり、1990年代には真偽論争が本格化する。だが、現在ではこの文書は和田氏が自ら捏造(ねつぞう)した偽文書であることで決着がついている。その顛末(てんまつ)は、地元の東奥日報の記者としてこの問題を追い続けてきた斉藤光政氏の『戦後最大の偽書事件『東日流外三郡誌』」(集英社文庫、2019年)に詳しい。

 同書で斉藤記者は、和田氏の筆跡とこの古文書の筆跡が非常によく似ている点など、様々な疑惑を追及していくが、その中では様々な興味深いエピソードが記されている。一例を挙げれば、斉藤記者は和田氏の没後、親族の了解を得てその文書が見つかったという家の探索に出向く。家の片隅には黄色い液体の入ったペットボトルが何本も並んでいたが、中に入っていたのは小便だった。

 ちなみに、和紙を古びた感じに加工する手段として「小便を塗りつける」手口があるという。緻密(ちみつ)な取材に基づく同書は、捏造の実態がどのようなものだったかをリアルに描き出している。

「かくあってほしい」という歴史

 学問的には根拠がない偽史が、大衆のレベルでは影響力をもってしまう。一連の事例から見えてくるのはこんな構図である。では、人はなぜこうした偽史に引かれてしまうのか。一つ言えるのは、「偽史は人々の願望を映し出すものだ」ということだろう。

 義経ジンギスカン説に即していえば、小谷部全一郎の本がベストセラーになったのは大正末期。この時点で日本は既に韓国を併合し、大陸への進出を始めていた。その際に何のゆかりもない他国を侵略するのであれば、自らの正当性に傷がつく。だが、「日本人にはアジアに大帝国を築いた歴史がある」といった観念があれば、胸を張って外国に出ていける。

 竹内文献も同様だ。戦前の超国家主義は「八紘(はっこう)一宇(いちう)」、つまり「全世界を一つの家のようにまとめよう」というスローガンを掲げていた。それ自体はナショナリストの田中智学が明治時代に造語したものだが、「超古代の日本は全世界を支配していた」という竹内文献の内容は、超国家主義に親和性のあるものだった。

 竹内巨麿が教団を置いた茨城県の磯原には、太平洋戦争開戦時の首相・東条英機をはじめ、荒木貞夫、真崎甚三郎といった有力な陸軍軍人が参拝に来た記録があるという。彼らが荒唐無稽な歴史を本気で信じていたとは思えないが、竹内文献が説く歴史は聞いて心地よいものだったのではあるまいか。

 東日流外三郡誌の内容が、東北人にとって「あらまほしきもの」だったことも明白だ。「白河以北一山百文」といった言葉が象徴するように、歴史的にみれば、東北は遅れた土地、(へき)地といったマイナスのイメージで語られてきた。そこに現れた「東北の古代には大和朝廷にも負けない一大王朝があった」という言説は、東北人の自尊心に強く訴えかけるものだった。

偽史研究の必要性

 義経ジンギスカン説や竹内文献が海外膨張主義を後押ししたように、偽史を「与太話」として放置することの危険性は明らかだろう。もちろん、現代においてそんな錯誤が起こるとは考えにくい。しかし、歴史を軽んじることで人々が不合理な判断、行動を取ってしまう可能性は常にある。それは、狭義の偽史とは言えないものの、「ナチスドイツによるホロコーストはなかった」というような「歴史修正主義」が現代でもたびたび問題になっていることからも分かるだろう。

 こうした偽史の危うさを逃れるにはどうすればよいのか。有効なのは専門家の発言に耳を傾けることだが、現在のアカデミズムでは「怪しげな偽文書などは無視しておけばよい」という考えが常識化しているという。業績として認められないのであれば、偽史を検証するような研究は生まれにくい。

 そこで重要なのは、偽史研究にポジティブな評価を与えていくことだろう。まず、偽史研究には世間の迷妄を正す社会的・啓蒙的な役割を期待することができる。さらに言えば、偽史研究それ自体から学術的価値のある知見が得られる可能性もある。実際に馬部氏は、『椿井文書』でこう述べている。「(椿井文書は)人々の生活のなかでどのような役割を果たしてきたのか、あるいは偽史がまかりとおる構造とはどのようなものなのか、といったことを分析する素材となりうる」

 これまで在野の研究者が中心になってきた感のある分野ではあるが、2017年には小澤実編の論集『近代日本の偽史言説』(勉誠出版)が刊行されるなど、アカデミズムの世界にも新たな動きはある。明らかに奇妙な言説に対しては、メディアが注意を喚起し、警鐘を鳴らす役割を担っていくことも欠かせないだろう。新たな展開がみえてきた偽史研究。その地平はどこまで広がっていくのか、今後の動向を注意深く見守っていきたい。

 時田英之(ときだ・ひでゆき) 専門分野は論壇、宗教。文化部次長、論説委員、編集委員を経て現職。論壇記者としての経験を生かし、現代日本の思想潮流をフォローしている。

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