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佐々成政は真冬の北アルプスを越えたのか?

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■戦国武将の 佐々成政(さっさなりまさ) が約400年前、徳川家康の支援を求めて富山から厳寒の北アルプスを踏破したという「さらさら越え」の逸話は、史料などの裏付けもあり、本当にあった話とみられている。

■ただ、そのルートは 巷間(こうかん) いわれる立山黒部アルペンルートに沿ったものではなく、越中(富山県)から飛騨(岐阜県)へ南下し、飛騨山脈を越える「飛騨ルート」だったとみられる。ルートの安全上も、当時の軍事勢力圏からも最も危険度が低いからだ。

■最も危険度が低いとはいえ、厳冬期に北アルプスを越えて列島を1か月半で往復するのは容易ではない。成政の剛毅果断な行動力には驚かされる。

富山市郷土博物館主査学芸員 萩原大輔  

開通に備えて除雪が進む「立山黒部アルペンルート」(4月7日午前、伊藤紘二撮影)
開通に備えて除雪が進む「立山黒部アルペンルート」(4月7日午前、伊藤紘二撮影)
立山黒部アルペンルート「雪の大谷」を楽しむ観光客ら(4月15日、細野登撮影) 
立山黒部アルペンルート「雪の大谷」を楽しむ観光客ら(4月15日、細野登撮影) 

アルペンルート開通50年

 今年は日本が世界に誇る山岳観光路「立山黒部アルペンルート」開通から50年という記念すべき年だ。遡ること半世紀、昭和46年(1971年)6月1日に、アルペンルートは全線開業している。以来、多くの人々がバスやケーブルカー、ロープウェーなどを乗り継ぐアルペンルートをたどり、富山県(立山町)と長野県(大町市)を結ぶ標高3000メートル級の北アルプスの山々が織りなす大自然の絶景に酔いしれてきた。

 滋賀県近江盆地生まれの筆者も、小学生時代、夏休みに家族旅行でアルペンルートへ行き、黒部ダムの観光放水に息をのんだ記憶がおぼろげながら残っている。もう今から30年ほど前のことだ。現在は新型コロナウイルスの収束が見通せない中ではあるが、読者諸賢も機会と状況が許せば、感染防止対策を徹底したうえで、ぜひ一度は訪れていただきたいと思う。ただし、深い雪に閉ざされる12月から翌年の4月上旬の間は、営業していない。冬山の危険を考えると、当然といえば当然だろう。

 そのようなアルペンルートにほぼ準じる道筋を、今から400年以上も前の天正12年(1584年)、しかも12月から1月にかけての真冬に往復した、と語り継がれる戦国武将がいる。織田信長の家臣として頭角をあらわし、越中(富山県)の大名に昇りつめた佐々成政(さっさなりまさ)(?~1588)だ。日本登山史上の快挙として名高い「佐々成政のさらさら越え」という呼称で知られる真冬の北アルプス越えの逸話である。

「さらさら越え」断行の背景

佐々成政画像(法園寺蔵、尼崎市立歴史博物館提供)
佐々成政画像(法園寺蔵、尼崎市立歴史博物館提供)

 信長亡き後も越中の支配を委ねられていた成政は、本拠を富山城(富山市)に構えていた。ちなみに現在の富山城は、内部が富山市郷土博物館となっており、筆者の職場である。それはさておき、天正12年当時の成政は、徳川家康から誘いをうけ、信長の次男、織田信雄(のぶかつ)を奉じて羽柴秀吉と敵対していた。世に言う「小牧・長久手の戦い」だ。しかし、同年9月11日に末森(石川県宝達志水町)で、秀吉方の前田利家軍に大敗を喫した。いわゆる末森の戦いである。また、翌10月には境城(富山県朝日町)を越後(新潟県)の上杉景勝軍に攻め取られ、東西から挟撃されつつあった。

 成政はさらなる窮地に陥る。あろうことか、盟主と仰ぐ信雄が11月に秀吉と単独で和睦(わぼく)に踏み切ったのだ。翌12月にはそのような形勢をみて家康までもが、秀吉へ次男の()()()(のちの結城(ゆうき)秀康)を人質として差し出し、停戦してしまう。北陸で文字通り孤立無援となってしまった成政に残された道は、戦い続けるか、和を求めるかの二つしか残されていなかった。

 前者を選んだ成政は、何としても信雄と家康の協力を必要とした。秀吉と和睦した彼らの本心はどうなのか、これからも手を組んでくれるのか。そこで、使者を遣わして考えを聞くのではなく、自ら赴いて答えを問うことにした。その時家康は、富山から遠く離れた遠江国浜松(静岡県浜松市)にいた。東の国境は上杉軍、西の国境は前田軍が固めており、敵の目をかいくぐり、信濃(長野県)へ抜けて太平洋側に向かわなければならない。「さらさら越え」は、このような抜き差しならぬ状況を背景に断行された。

 結局、家康は再挙兵を求める成政の要請を聞かず、信雄も色よい返事はしなかったという。筆者はこの通説に疑問をもっており、家康とは引き続き友好関係を確認する成果があったと考えているが、いずれにせよ成政は再び北アルプスを越えて越中まで戻ることなる。短期間に真冬の立山連峰を往復するのは至難の業だ。成政は本当に家康に会いに行ったのか。さらさら越えはしょせん伝説ではないのか。そう問われると、筆者は決まって「立山を越えていったかは分からないが、富山から浜松まで行ったのは事実だ」と答える。そう断言できるのは、きちんとした証拠が残っているからだ。

「さらさら越え」の道筋をめぐる諸説

 まず、東京の駒沢大学図書館が所蔵する『家忠日記』を挙げたい。家康の家臣、松平家忠(1555~1600)が書き残した自筆の日記で、信頼しうる同時代史料とみてよい。その天正12年12月25日の条は「越中之佐々蔵助浜松へこし候、吉良信雄様御(たか)()ニ御座候、御礼申候」と記す。直訳すると「越中の佐々成政が浜松まで来た。吉良で織田信雄様が鷹狩りをしている。そちらへあいさつに行った」。ほかならぬ家康に仕えた家臣の証言であり、12月という厳寒期に、成政が富山から浜松まで赴いたのは間違いない。浜松よりもさらに西の吉良(愛知県西尾市)まで足を延ばしたことも分かる。その目的は、鷹狩りで来ていた信雄に会うためだった。

「さらさら越え」について記した『当代記』(国立公文書館蔵)
「さらさら越え」について記した『当代記』(国立公文書館蔵)

 つづいて、『当代記』という歴史資料を取り上げる。『当代記』は、家康の外孫にあたる松平忠明(1583~1644)がまとめたと伝わる史書だ。「さらさら越え」の時はまだ忠明は幼く、書かれた記事は後年に彼が伝え聞いたものだろう。決して一級史料とは言えないが、当事者も少なからず生き残っていただろうし、一からの作り話を書き留めたとは思えない。研究者の間でも、『当代記』は比較的信頼の置ける史料と判断されている(『国史大辞典』など)。

 その天正12年12月条は、「佐々木奥陸((ママ))守浜松江下、于時信雄吉良鷹野シ玉フ間、於彼地佐々木有対面、サテ軈而帰国、上下信州ヲ通」と記す。補足しながら意訳すれば「佐々木陸奥守こと佐々成政が浜松へやってきた。その時ちょうど信雄が吉良で鷹狩りをしていたので、吉良の地で2人は対面した。そして成政はすぐに越中へ帰国した。行きも帰りも信濃国を通った」となるだろうか。

 先に見た『家忠日記』と似た情報も多いが、「すぐ帰った」という記述は興味深い。考えてみれば当たり前だが、「さらさら越え」が急ぎの行程であったことが分かる。本拠の富山城を長く留守にするわけにはいかず、戦国武将としては当然の判断だろう。

 さらに、「上下信州ヲ通」という証言も見逃せない。成政は往路、復路ともに信濃を経由したことが分かる。ただ、越中から信濃までの間、どの道筋を通ったのかという問題は残る。

 この点に関する研究者の意見は、大きく三つに分かれている。一つ目は富山から立山連峰のザラ峠・針ノ木峠を越えて大町へ抜けたとみる「立山説」。二つ目が富山から南下して飛騨(岐阜県)に入り、安房(あぼう)峠もしくは中尾峠を越えて深志(松本市)に出たとする「飛騨説」。三つ目は、富山から日本海沿いを東へ進み、越後との国境を流れる境川(富山県朝日町)を上流へたどり、難所の親不知(おやしらず)を避ける「上路(あげろ)越え」で根知(新潟県糸魚川市)に出て、千国(ちくに)街道を通り大町へ抜けたという「糸魚川説」だ。

 はたしてどの道筋をたどったのか、いまだ議論の決着はついていない。戦国時代から残されたミステリーの一つといってもいいのではないか。

同時代史料が語る「さらさら越え」の行程

 よく知られている「立山説」の経路は、冒頭で述べた通り、ほぼ現在の立山黒部アルペンルートに沿った道筋となる。だが、これに対して懐疑的な意見は根強い。飛騨と信濃の国境を結ぶ鎌倉街道の存在に着目して「飛騨説」を唱えた服部英雄氏は、「早く安全に確実に通行できる鎌倉街道があったのに、なぜそこを行かなかったのか」(『峠の歴史学』朝日新聞社、2007年)と問う。

 実に鋭い指摘だ。これまで「立山説」の当否の論点は、真冬の立山を越えることはできるかどうかに終始し、ある人は当時の登山装備や技術ではとうてい無理だと断じ、ある人は可能だと説いてきたが、考えてみればこれは水掛け論でしかない。むしろ「立山説」に決定的に足りないのは、成政は他ルートの選択肢があったにもかかわらず、なぜ立山越えをあえて選んだのかという理由の説明だと思う。

 成政は立山踏破を志す登山家ではなく、戦国の世を生きぬかねばならない一国一城の主だ。先述の『当代記』が記すとおり、成政は急いでいた。一刻も早く用を済ませて無事に富山へ戻らねばならない。立山よりも他に安全で確実な経路があれば、普通はそちらを使うのではないか。飛騨ルートは、3000メートル級の峠を2度も越える必要のある立山ルートや、敵である上杉領を通らねばならない糸魚川ルートよりも、危険度ははるかに低い。はたして我々が成政なら、どの道筋を選ぶだろうか。

 この謎に迫るには、成政が何月何日に富山を出て、いつ浜松に着き、何月何日に富山へ戻ったのか、「さらさら越え」の行程をまず押さえるべきだろう。よく言われるのは、11月23日に富山城を出発し、12月1日に上諏訪(長野県諏訪市)へ至り、浜松城へ着いて4日に徳川家康と面会し、翌5日の朝に浜松を発ち、織田信雄に拝謁(場所は不明)した後越中への帰路についた――という行程だ。富山に戻った日ははっきりしない。

『絵本太閤記』が描くさらさら越え(国立国会図書館蔵)
『絵本太閤記』が描くさらさら越え(国立国会図書館蔵)

 これらの情報は、加賀藩(石川県)で医者を勤めた小瀬(おぜ)甫庵(ほあん)が寛永3年(1626年)に著した『太閤記』に基づいている。しかし、『太閤記』には江戸時代特有の儒教色あふれるフィクションが多く含まれ、書かれた時期も「さらさら越え」から数十年後のことで、事実をたぐりよせる歴史資料としての使用には適さない。

 筆者が信頼できる同時代史料から復元した行程は、往路も復路も信濃を経由する。おそらく成政は、天正12年12月に家康と秀吉が停戦したという報をうけて、自ら浜松へ赴くことを決意し、すぐさま行動に移した。具体的には、12月5日以降のある日(残念ながら日は特定できない)に富山を出発し、信濃を経て浜松へ赴き、少なくとも23日までに家康と顔を合わせたのではないか。

 浜松に着いた日時は不明だが、家康に面会した成政はつづいて吉良に向かい、鷹狩りのため吉良に来ていた織田信雄に拝謁した。それを終えるとすぐさま帰途につき、25日には深溝(愛知県幸田町)で家康の家臣、松平家忠からもてなしを受けた。そして復路も信濃を通り、途中まで出迎えにきた村上義長なる武将とともに年を越し(出迎えた地も年越しの場所も未詳)、義長の拠点に立ち寄りつつ、遅くとも1月21日までに富山へ帰り着いた。往路は最長でもわずか2週間余り、復路は1か月弱かかったと推定できる。その剛毅果断(ごうきかだん)な行動力には、ただただ驚くほかない。

村上義長の動向と信濃の情勢から探る道筋

 注目したいのは、村上義長なる人物が帰路についた成政を出迎え、ともに越年するなどして「さらさら越え」に深く関わっていることだ。義長は、武田信玄に2度も勝利したことで知られる信濃の武将、村上義清の次男だが、筆者が調べた限り、「さらさら越え」当時は没落した流浪の身で、信濃を追われた後、兄の国清とともに越後の上杉氏のもとへ身を寄せていた。

 越後で村上兄弟は厚く遇されたらしく、山浦上杉氏の名跡を継ぎ、上杉家中で重きをなしていた。国清は上杉謙信の養子となり、謙信の跡を継いだ景勝から「景」の一字を賜って景国と名を変え、海津城(長野市)の城主を任される。弟の義長も破格の抜擢(ばってき)を受けた景国とともに信濃にいたと考えられるが、天正12年3月に突如として兄が失脚し、城内の家臣たちも粛清の憂き目に遭う。兄にどのような落ち度があったのか、詳しい理由は不明だが、何らかの反逆行為があったと考えるのが素直だろう。

 義長は上杉氏に属する身でありながら、敵である織田方にかねてより内応していたことが同時代史料から分かっている。そのため、兄の失脚と家臣の粛清に身の危険を感じて、いち早く上杉の元を離れたのだろう。頼るべきは気脈を通じていた織田方しかない。父のかつての拠点だった葛尾城(長野県坂城町)への復帰を画策した義長は、近辺を支配していた徳川家康への取り成しを成政に求め、翌4月に高原(岐阜県飛騨市)へたどりつく。打診を受けた成政側は、義長に対して猪谷(富山市)へ移るよう勧めている。

 義長が実際に猪谷へ行ったかどうかは定かではないが、猪谷か高原に滞在したとみていいだろう。しかし、その後に本領復帰に向けて目立った動きは見られないところをみると、「さらさら越え」が行われた同年12月段階でも、義長をとりまく状況は大きく変わっていなかったのではないか。つまり、成政に(かくま)われた義長は、引き続き飛騨と越中の国境近辺に身を寄せていたのである。

 このように考えると、成政がたどった「さらさら越え」の道筋は、ザラ峠・針ノ木峠を越える立山ルートでも、上路越えから千国街道を通った糸魚川ルートでもなく、飛騨ルートの可能性が最も高い。義長がいたとみられる高原または猪谷は、いずれも飛騨ルート上にある。それでも「立山説」を採るならば、協力者の義長がどこにいたのか、納得できる説明が必要になるのではないか。

 どのルートをたどるにせよ必ず通るのが、北部が越後や越中との国境に接し、南部は飛騨との国境に接する信濃の安曇郡だ。安曇郡は成政にとって敵である上杉方と、友好勢力である徳川方(小笠原貞慶(さだよし))が激しい攻防を繰り広げるエリアとなっていた。筆者が調べたところ、安曇郡北部の千見城と大野田城(いずれも大町市)は当時、いずれも上杉方の勢力下にあった。上杉領と小笠原領の境目は、沢渡(長野県白馬村)や仁科(大町市)辺りだったとみられ、それより南の地域では、小笠原氏が安定的に統治しており、飛騨との国境地域である奈川・大野川・稲核(いねこき)(いずれも松本市)も小笠原氏の代官による支配が行われていた。

 つまり、成政が乾坤一擲(けんこんいってき)で立山を首尾よく越えることができたとしても、行きつく先の大町は敵領だったことになる。糸魚川ルートだと、根知に出てから通る千国街道も大町を抜けるまでひたすら敵領を通行しなければならない。飛騨ルートなら、猪谷から高原を通り、安房峠もしくは中尾峠を越えると、小笠原氏が支配する安曇郡エリアへ出ることができる。上杉軍の急襲を警戒する必要がない安全な道筋といえよう。「さらさら越え」当時の軍事情勢をふまえても、明らかに危険な「立山説」や「糸魚川説」は考えにくい選択肢といえる。

語り継がれた「さらさら越え」

歌川国芳『太平記英勇伝』に描かれた成政(佐田陸奥守有正)のさらさら越え
歌川国芳『太平記英勇伝』に描かれた成政(佐田陸奥守有正)のさらさら越え

 以上述べてきたように、「さらさら越え」の道筋は、現時点では「飛騨説」の蓋然性が最も高い。アルペンルートに沿った真冬の立山連峰越えという壮大な歴史ロマンを否定するようで誠に申し訳ないが、たとえそうであっても、旧暦の12月中旬前後から1月21日頃、今の暦で1月下旬頃から2月末前後にかけて、極寒の飛騨山脈を往復するのは至難の業だ。越えたのが安房峠か中尾峠かは()くにせよ、厳寒期に約1か月半で日本海側の富山と太平洋側の浜松・吉良を往復する列島横断を果たしたのだから、やはり「成政おそるべし」と評するほかない。

 成政の真冬の立山連峰越えは「さらさら越え」という呼び名で江戸時代以降語り継がれ、広く知られることになった。江戸時代後期のベストセラーとなった挿絵入り読み本『絵本太閤記』でも取り上げられ、当代きっての人気絵師・歌川国芳も「佐々成政のさらさら越え」を浮世絵に描いている。かくして、真冬の北アルプスを越えたという言説が、様々な大衆文化メディアを介して一般庶民の間に広まり、今日に至るまで語り継がれてきた事実もまた、立山黒部アルペンルートをめぐる揺るぎない歴史のひとつなのだ。このようなエピソードを頭に入れてアルペンルートをたどると、北アルプスが織りなす景色も微妙に異なって見えてくるのではないだろうか。

主要参考文献
萩原大輔「佐々成政のさらさら越えルート私考」(越中史壇会『富山史壇』172号、2013年)
萩原大輔『武者の覚え 戦国越中の覇者・佐々成政』(北日本新聞社、2016年)
萩原大輔「佐々成政の富山浜松往復と安曇郡」(信濃史学会『信濃』71巻12号、2019年)

プロフィル
萩原 大輔氏( はぎはら・だいすけ
  昭和57年(1982年)生まれ、滋賀県出身。富山市在住。山口大学人文学部卒業、京都大学大学院文学研究科修士課程修了。博士(文学・京都大学)。平成21年4月富山市郷土博物館へ着任。令和2年4月より現職。越中史壇会研究委員。加賀藩研究ネットワーク運営委員。金沢城編年史料編纂協力員。

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2112355 0 文化 2021/06/09 16:30:00 2021/06/09 16:30:00 2021/06/09 16:30:00 https://www.yomiuri.co.jp/media/2021/06/20210604-OYT8I50066-T.jpg?type=thumbnail

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