追悼・瀬戸内寂聴さん 新聞小説に込めた思い

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 昨秋、99歳で逝った作家の瀬戸内寂聴さんは、毎朝、主要紙すべてに目を通した。視力が衰えても、新聞を読む習慣を大切にし、紙面に連載するエッセーを生きがいとした。連載した「新聞小説」は生涯で14作。一貫して時代と共にあった、その作品群に込められた思いを振り返る。

コロナ後の新・観光戦略論
調査研究本部客員研究員/早稲田大学教授 尾崎真理子  

 瀬戸内さんが新聞をよく読んだのは、常にいずれかの新聞に、エッセーを連載していたからでもあった。「朝日新聞」の「寂聴 残された日々」が最後に掲載されたのは、11月9日に亡くなる前月半ば。2018年まで自身で編集、発行し続けた新聞「寂庵だより」でも、31年間、時事的な観点が途切れたことはなかった。その内容は湾岸戦争時にはハンスト、東日本大震災後には反原発を掲げるデモ行進などの活動とも連動していたが、多くの回は愛する家族との別れ、経済的な困難等、人生の苦難に沈む人々をいたわり、励ます言葉に費やされてもいた。執筆の意欲が長く保たれたのは、80代半ばで「毎日新聞」に『生きて行く私』を連載し、存在感を発揮した先達、宇野千代(1996年、98歳で死去)への対抗意識もあったのだろう。

読売『愛死』 電光石火の連載決定

 小説の創作に関しても、宇野をはじめ、他の作家がどのような作品を何歳で残したか。その前例が奮起の大きな材料だった。

 「円地(文子)さんが『食卓のない家』を書いたのは、確か、70代になってからでしょう? あれは連合赤軍事件と向き合った、立派な仕事でした」

日本文化研究者のドナルド・キーンさんと対話する瀬戸内寂聴さん(岩手県平泉町の中尊寺金色堂で。2011年10月12日)
日本文化研究者のドナルド・キーンさんと対話する瀬戸内寂聴さん(岩手県平泉町の中尊寺金色堂で。2011年10月12日)

 レイチェル・カーソンの『沈黙の春』に触発された有吉佐和子が「朝日新聞」に『複合汚染』を連載して環境問題の視点を世に広めたのも、同紙で曽野綾子さんが生殖医療の倫理を問うた『神の汚れた手』を書いたのも、1970年代のことだった。新聞小説の持つ影響力の大きさを当然、意識し続けていたはずだ。1992年秋、70歳で念願の谷崎潤一郎賞を受賞した直後、瀬戸内さんが「読売新聞」の連載小説を引き受けたのは、そうした女性作家たちの実績を更新したいという気持ちが働いていたと推察する。

 その連載小説『愛死』が、瀬戸内さんとの最初の大仕事だった。同92年秋、東京本社文化部の文芸担当に着任したばかりの筆者にとって、瀬戸内さんは偶然、初めての本格的なインタビューの相手。一か八か、連載小説のお願いもその場で試みたのだった。当時、社会的な関心が高まっていたエイズ―現在ではHIVと表記される新たな病へと話題が及び、「中国では、エイズは愛死病と呼ばれたりもしているそうです」。何気なく雑誌で読んだ話を伝えると、身を乗り出して、「それはテーマになるわね」。たちどころに承諾してもらった。電光石火の、その決定の瞬間は記憶している。

 瀬戸内さんはそれまでにも、『こころ』という連載を1978年秋から1年間、読売新聞に連載していた。その当時の文芸担当、中田浩二部長と共に、翌週には京都・嵯峨野の寂庵へ正式な依頼に参上した。『こころ』の挿絵は風間完。2度目は「ぜひ、横尾忠則さんに」との指名も預かった。横尾氏と親しいアメリカのアーティストがその頃すでに何人も、この病に倒れているからという理由だった。

 さっそくエイズ関連の書籍が出るともれなく寂庵へ送り、監修役の医師を決め、この病の動揺が広がっていた新宿二丁目 界隈(かいわい) にも一緒に取材に行った。それでも足りずに、瀬戸内さんは独自にアポをとって、非加熱輸入血液製剤によって感染してしまった川田龍平さん(現参議院議員)などからも話を聞いていた。おかげで薬害エイズ禍の悲劇をいち早く伝える役割も、連載は担うことになる。が、この「現代の 宿痾(しゅくあ) 」については不明のことも多く、瀬戸内さんも私も、困難なテーマを引き受けたと悔いに (さいな) まれもした。同時期、『源氏物語』の現代語訳を依頼し、完成を待ちわびていた講談社にも、訳出の遅延という迷惑な事態を招いてしまった。そんな事情は想像し得なかった筆者の若気の至り、それ以上に瀬戸内さんの 義侠心(ぎきょうしん) 、蛮勇を思い出して苦笑する。生涯に400冊に及ぶ本を書き、質、量ともに「文豪」と呼ばれる域に達する作家とは、そういう向こう見ずをやってのけるものなのだろう。

新聞記者への愛情

 〈私たちは「愛する」ために生きていますが、「愛」にとってエイズは厳粛な踏み絵になるでしょう。(中略)「愛」と「死」は人間の、そして文学の永遠のテーマでしょう。小説の中で私はエイズと共に生きる人類の智恵を探りたいと思います〉。社会面の社告に作者はこのようなことばを寄せ、1993年11月4日から『愛死』の連載は始まった。主軸となるのは大学教授の夫を持つ40代の彰子と、姪でフリーライターの瑶子。ふたりはそれぞれ感染患者である男性と知り合い、不義を犯した彰子もエイズに感染して家を出るが……。

寂聴さんを偲ぶ会で、祭壇に向かって手を合わせる参列者ら(京都市で。2021年12月9日)
寂聴さんを偲ぶ会で、祭壇に向かって手を合わせる参列者ら(京都市で。2021年12月9日)

 当時、原稿もゲラもファクスを介してやりとりした。ストックはたいてい3、4日分。横尾さんは心得たもので、最初から場面に合わせた絵とはせず、エイズという病魔のイメージを独自のペースで展開した。瀬戸内さんが脳 梗塞(こうそく) の疑いで病院に1泊したこともあったと知らされたのは、翌94年9月5日、296回の連載を終えた後である。

 平成に入り、新聞小説の影響力は昭和のようにはいかなかった。『愛死』も大きな話題にはならなかったが、医療関係者からは 啓蒙(けいもう) の役割を評価する声が届き、しばらく瀬戸内さんには講演会の依頼が相次いだ。上下巻の単行本が刊行され、『源氏物語』現代語訳が96年末に刊行され始める頃には、筆者も仕事をひと通り覚えていた。以来、ときには岩手県の天台寺まで同行取材を行うなどしながら、いったい何度取材し、記事にしてきただろう。僧侶としてではなく作家として対し、エッセー類ではなく小説作品を読んで 忌憚(きたん) のない感想を伝える、創作の苦心をまず () くという態度で臨んだから、よく声をかけてもらったのだと思う。

 2008年からは「婦人公論」に連続インタビューを連載し、『寂聴文学史』として中央公論新社刊の一冊となった。その後も2011年、東日本大震災後の秋には、得度した場所である岩手県平泉町の中尊寺で、ドナルド・キーン氏との対談を行い、読売新聞の特集紙面が実現した。

 2019年12月には、詩人の伊藤比呂美さんの発案によって早稲田大学で、高橋源一郎、平野啓一郎両氏を交えて「寂聴シンポジウム」を開催した。本人は出席を切望されたが体調がかなわずビデオ出演となり、そのまま、コロナ禍でお目にかかれなかった。連載小説の伴走者としての心得に始まり、「評伝」の取材法、資料集めのコツ。様々なことをさりげなく教えられ、叱られ、育てられた30年だった。瀬戸内さんは新聞記者という職業の人間が好きで、どこの社の誰、ということでなく、記者を大事にした。

現代女性の思いを書き続ける

 さて、「新聞小説」がこの作家にとってどのような存在だったのか。

 その作品リストは表のようになる。1998年末に連載を終えた俳人、鈴木真砂女をモデルとした『いよよ華やぐ』まで、続々と生み出されている。挿絵画家も風間、横尾氏をはじめ、村上豊、辻村ジュサブローとさすがに華やかだ。

 瀬戸内晴美の筆名で初の新聞連載『女の海』(単行本化に際して『その終りから』と改題)を「東京タイムズ」に連載を始めたのが1959年。まだ無名に近い作家にとっては連載の仕事自体が初めてだった。夫との間に子がありながら、離婚を決意した編集者の主人公が、結婚できない相手との恋愛に飛び込んでいく。それは当時の作家自身の環境と心境と重なる物語でもあった。

 家庭を (おり) と感じた時、そこからどう逃れ、困難を引き受けてでも自立した精神と生活を実現するか。『人形の家』のノラのバリエーションを瀬戸内晴美は書き続ける。全国紙も、100万部を超える週刊誌も、中間小説誌も、注文が来れば引き受け、流行作家として名を上げていく。田村俊子、岡本かの子らの伝記小説はもっぱら月刊誌に連載した。ほぼ10年間で長編だけでも24作。

 この時期の作品について後年瀬戸内さんは、「やはり文学作品ではないという思いもあります」と自己評価は厳しく、新潮社から2001~02年に刊行した『瀬戸内寂聴全集』全20巻にはほとんど入っていない。しかし、〈今、読み返すと、あの頃の日本の女性たちの思いも、一年ごとに豊かになる日本の社会も、作品の中にそのままとどめられているよう〉(『寂聴文学史』)と懐古している。

 故郷、徳島市の県立文学書道館で2004年、「瀬戸内寂聴 新聞小説展」が開催された際には、次のような文章を図録に寄せている。

 〈私は依頼されるままに、新聞小説を書いた。週刊誌や月刊誌にも書きに書いていた時代に、それらと並行して新聞小説を書くことは、他から見れば大変なように見えるらしいが、私は一日、三枚半か三枚の新聞小説は性に合っているらしく、苦に思ったことは一度もなかった。現代小説だけでなく、時代小説も書いた。これは考証や調査が必要なことが多いので、その分大変だったが、そういうことの好きな私は、かえって (たの) しく、時代小説を好んで書いた〉

 吉川英治に師事した杉本苑子、東京大学の歴史学教授らとも勉強会を開いていた永井路子らに刺激され、歴史小説、そして『源氏物語』現代語訳への野心が (きざ) したのも、新聞という大舞台をこなした自信が背を押したからだろう。

多声的で複雑な小説世界

 純文学としての「私小説」も、時代に先駆けた自らの生き方に殉じた女性たちの伝記小説も、男女の愛憎をリアルに描くエンターテインメントも自在に書き分け、流行作家の頂点に上り詰めた40代の仕事について、文芸評論家の秋山駿は〈日本には珍らしいバルザック型〉であり、〈菊池寛の恋愛小説に比せられるべきものだ〉と指摘している(『小説家の誕生 瀬戸内寂聴』)。

 そうした資質を存分に発揮して、新聞小説の中でも格別の成功を収めたのが、1971年8月から1年余、「日本経済新聞」に掲載された『京まんだら』になる。

瀬戸内晴美として執筆していたころ(1963年)
瀬戸内晴美として執筆していたころ(1963年)

 苦労して20代半ばで祇園にお茶屋を開いたシングルマザーの芙佐を中心に、店の常連客の出版社の社長、随筆家、写真家、そして 舞妓(まいこ) 、芸妓、仲居……プロフェッショナルな女性たちが同時進行でそれぞれの人生を選択していく。これは日本にはめずらしい〝社交界小説〟だった。1964年に東海道新幹線が開業してからというもの、もともと京都が好きだった瀬戸内さんは、月の半分を京都に購入した日本旅館のような古い家で過ごし、その不動産を仲介した実業家の紹介で、芙佐のモデルとなった女性が経営する「みの家」へ自腹で通っていた。そこに「日経」から「祇園の女たちを書いてもらえませんか」と注文が入った、と聞いている。何事も金次第の旧弊な祇園にも、自由な教育を受けた戦後育ちの若い女性が変革をもたらし始めていた。

 戦争を知る世代の芙佐は〈祇園があるということは、世の中は平和やということどすやろなあ〉と言う。芙佐の娘が〈OLも、ホステスも、舞妓も、学校の先生も、うちらの世代は、みな職業のひとつで同じことやと考えてるわ〉と反発する場面もある。作家の分身、出版社社長の敏子には〈このまま、仕事だけを生命にして働きつづけ、最後に何が残るのだろう〉と嘆息させている。瀬戸内作品は有吉佐和子のように舞台化やドラマ化される作品が意外に少ない。それは物語の筋書きで引っ張るより、多声的で複雑な小説世界になっているからだろう。また、その時代に流行した記述も古びることを構わず、新聞小説には積極的に取り入れていく。しかも取材を人に頼らず、独自に行い、関連資料もよく読む。

 「作中人物が作者の意図の中から飛び出して、自由勝手に動きはじめると、成功します」「何回分もいっぺんに書くと、どうしても話の山が大きくなる。一回ごとに山を創ることが何より大切」

 これは『愛死』の連載開始前のインタビューで聞いた言葉(「読売新聞」1993年11月2日付夕刊)で、当時はそれを遅筆の言い訳のようにも聞いていた。しかし、瀬戸内さん一流の新聞小説の流儀だったことが今ならばわかる。すべての情報と感覚を総合しながら、日々3枚の断片を積み重ねて読ませていくのは、よほどの習練が必要だが、その技術を会得した作家、いや、そんなことなど意識しないで連載小説に臨む書き手のほうが、現在では多いのかもしれない。

中尊寺で剃髪、法名・寂聴と法衣を授かる瀬戸内さん(岩手県平泉町で。1973年11月14日)
中尊寺で剃髪、法名・寂聴と法衣を授かる瀬戸内さん(岩手県平泉町で。1973年11月14日)

 調べてみると、『京まんだら』を連載していた71年後半には、瀬戸内晴美は、月刊「婦人公論」に金子文子の伝記小説『余白の春』、「週刊文春」に恋愛小説『輪環』、「週刊朝日」に歴史小説『中世炎上』を並行して連載している。その上、純文学作品を掲載する「文藝」と「群像」に短編を発表している。

 常軌を逸した仕事量であり、その上、私生活でも後に明かされるように、作家の井上光晴―井上荒野さんの父との関係が煮詰まっていた。公私ともに追い込まれ、73年秋の出家へと覚悟は定まっていく。

 しかし結局、すべての行いは本人が繰り返していたように「文学のため」であり、やがて作品に昇華されていったことは、その後の長い活動が証明している。出家得度も、浮世、現実社会との関係を断ち切ることとはならないばかりか、仏教者として、より一層社会正義への行動力を増していく。その後の新聞小説、連載エッセーに対する姿勢が如実にそれを物語っている。

読者の手記もとに物語を展開

 この原稿を 急遽(きゅうきょ) まとめるにあたって、徳島県立文学書道館の図録「新聞小説展」に助けられたが、その 掉尾(ちょうび) を飾っていたのが、「毎日新聞」の余録子として有名な、諏訪正人氏の寄稿だった。

 1975年夏、パリ特派員を終えて東京本社の学芸部長に就いた途端、寂庵に呼び出され、部長が3人代わっても司馬遼太郎『翔ぶが如く』の連載が終わらず、次の執筆者である自分が待たされているのはどういうことなのか―怒りをぶつけられたという。以来、調整と打ち合わせのために月に3、4回、寂庵に通い、一時は岸恵子さんを伝記小説に書くため、取材を進めていたことも明かされている。結果的にはその案は断念され、団地住まいの平凡な主婦を中心に据えた、4代にわたる女の物語『まどう』が始まった。社告には〈従来の新聞小説のスタイルを破る、新機軸の手法を試みます〉。読者の手記を募集し、読者と共に物語を展開するという、双方向の創作がこの時、76年夏に試行されていたのだった。「朝日新聞」で筒井康隆がパソコン通信を通じて双方向を試みたより優に15年早かった。が、諏訪氏はその約30年後に読み返してみて、〈新機軸も読者参加もどこかにとんで、ただただ惑いの美しさに圧倒された。小説家・瀬戸内さんの勝利である〉と結んでいる。

 この感慨を、筆者も今、そっくり共有している。ほぼ30年前に企画した新聞小説『愛死』を読み返し、ただただ、流れるようなその筆力に圧倒された。瀬戸内寂聴はまさに新聞小説の大舞台で真剣勝負に挑み続け、連戦連勝を重ねた、豪の作家だった。

プロフィル
尾崎真理子( おざき・まりこ
 読売新聞で文芸担当を30年近く務める。著書に『大江健三郎全小説全解説』他。

※この論考は調査研究本部が発行する「読売クオータリー」掲載されたものです。読売クオータリーにはほかにも関連記事や注目の論考を多数収載しています。最新号の内容やこれまでに掲載された記事・論考の一覧は こちら にまとめています。

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