天下分け目「天王山の戦い」はなかったのか!?

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POINT
■「天王山の戦い」は、羽柴(豊臣)秀吉と 惟任(これとう) (明智)光秀が天下をかけて戦った山崎の合戦の勝敗を決めた衝突とされるが、それを示す同時代の史料は見つかっていない。

■江戸時代前期の秀吉の伝記『太閤記』などが記す「天王山の秀吉軍を率いた武将」についても諸説があり、戦いの詳細は謎とされてきた。

■山崎の合戦全体の勝敗を決する天王山の争奪戦はなかった。しかし、合戦の序盤に天王山で両軍が衝突したのは史実とみられる。秀吉軍は中川 清秀(きよひで) 、光秀軍は松田 政近(まさちか) が率いていたとみられる。

■史実を踏まえると、「天王山」は、現在のように「勝負や運命の分かれ目」ではなく、「重要な局面に至る序盤戦」などの時に使うのがふさわしい慣用句といえる。

富山市郷土博物館主査学芸員 萩原大輔  

月岡芳年『山崎大合戦之図』(東京都立図書館蔵)
月岡芳年『山崎大合戦之図』(東京都立図書館蔵)

同時代史料のない決戦

 「天王山」といえば、「ここ一番の勝負時」や「運命の分かれ目」を意味する慣用句として広く使われる。語源となったのが、 天正(てんしょう) 10年(1582年)6月13日の山崎の合戦での天王山の攻防だ。

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  惟任(これとう) (明智)光秀軍と羽柴(豊臣)秀吉軍(実際の総大将は織田信長三男の信孝)が激突した天王山(現・京都府大山崎町)は京都盆地と大阪平野の境にあり、鎌倉時代頃から天神八王子社を (まつ) ったことが山名の由来とされる。15世紀後半に成立した軍記物『 応仁記(おうにんき) 』に、すでに天王山の名を確認できる。両軍の決戦場となった山崎の後背にある標高約270メートルの高地は、この合戦における軍事上の要地に位置していた。

 だが、山崎の合戦での天王山の攻防を詳しく記した同時代史料はない。時期的に近いのは、秀吉の伝記『 川角(かわすみ)太閤記(たいこうき) 』や『太閤記』などだが、それも江戸時代前期に書かれたものだ。明智光秀研究家の明智憲三郎氏によると、『川角太閤記』に「松山が勝負の分かれ目」と書かれたのが初めてで、天王山という名前は『太閤記』に初めて出てくる。明智氏は『川角太閤記』が山の取り合いの話を作り、『太閤記』が山の名前を天王山に変えたと説く(『「本能寺の変」は変だ!』文芸社文庫、2018年)。まず、秀吉伝記の記述を確認しておこう。

『川角太閤記』『太閤記』の記述は

天王山の攻防(『瓢軍談五十四場」国立国会図書館蔵)
天王山の攻防(『瓢軍談五十四場」国立国会図書館蔵)

  元和(げんな) 7~9年(1621~23年)頃に田中吉政の旧臣、「川角三郎右衛門」(実名未詳)が著した『川角太閤記』は、秀吉が決戦前日に家臣の中村 一氏(かずうじ) を呼び、明日(6月13日)の明け方に天王山を押さえよと命じたうえで、「明日の合戦のかちまけはあの山取次第」と述べたと記す。天王山が「戦いの 帰趨(きすう) を占う場所」という意味を持つようになったのはここからだろう。対する光秀は、 鉄炮(てっぽう) 大将(具体名が書かれておらず誰かは不明)を天王山へ向かわせたところ、中村一氏率いる秀吉軍によって撃退されている。

  寛永(かんえい) 11~14年(1634~37年)頃に出版された加賀藩医の 小瀬(おぜ)甫庵(ほあん) 著『太閤記』には、決戦当日の 卯刻(うのこく) (午前6時頃)、光秀が家臣の松田 政近(まさちか) を呼び、「急ぎ天王山に上って山崎の方へ弓と鉄炮を浴びせよ」と命じたとある。政近はさっそく弓・鉄炮隊300余人を含む700ほどの兵で天王山を上りはじめる。一方、秀吉は家臣の堀尾 吉晴(よしはる) (中村一氏ではない)を呼び、こちらも「早く天王山に上り防備を固めよ」と指示した。堀尾は弓・鉄炮200人で急ぎ上ったところ、20人ほどしか追いついてこない。松田勢の方が先に山の上に着いていたため、堀尾勢は (とき) の声をあげて、弓・鉄炮を放ちながら迫る。そのうち残りの兵も追いつき、堀尾勢が松田勢を打ち負かして天王山を奪った。なお、数で劣っていた吉晴の勝利は、山腹の 宝積寺(ほうしゃくじ) 近辺にいた 堀秀政(ほりひでまさ) 勢が協力したからだという。

戦いは創作だった?

 近年の研究の多くは、天王山の戦いそのものに懐疑的だ。例えば、盛本昌広氏は『本能寺の変』(東京堂出版、2016年)のなかで、天王山の戦いは、小瀬甫庵が自らの旧主、堀尾吉晴の活躍を述べるために創作したと主張している。また、福島克彦氏は『明智光秀』(中公新書、2020年)で、争奪戦は一次史料では登場せず、羽柴秀吉の書状類にも見られないことをあげて「どこまで事実であるか判然としない」と説く。創作と断ずるかどうかはともかく、戦いについて慎重な姿勢をとるのはもっともなことだ。

 この点に関しては、光秀に関する古典的名著といえる高柳 光寿(みつとし) 氏の『明智光秀』(吉川弘文館、1958年)がすでに数十年前、的確に指摘している。高柳氏は「天王山の争奪戦は良質な史料には全くみえていない。(中略)そんなわけで天王山の争奪が勝敗を決したというのは作り話であって、事実ではない」と説いている。しかし、天王山の攻防そのものを否定していないことには注意が必要だろう。

 高柳氏は前掲『明智光秀』と同じ年に出した『本能寺の変 山崎の戦』(春秋社、1958年)で、「(中川)清秀はすでに天王山を占拠し、光秀の兵と鉄砲の撃ちあいをしたものと思われる」とも記している。どの史料を根拠としているかは記されていないが、中川家の家譜類(例えば『豊後岡中川家譜』)などではないか。中川清秀は、摂津茨木城(現・大阪府茨木市)を本拠とする織田信長の家臣で、山崎の合戦では秀吉に (くみ) していた。

中川清秀VS松田政近

中川清秀(『太平記英勇伝』東京都立図書館蔵)
中川清秀(『太平記英勇伝』東京都立図書館蔵)

 寛永年間(1624~44年)後期に、江戸幕府3代将軍徳川家光の命により、大名や旗本諸家が幕府へ差し出した由緒をまとめた『寛永 諸家系図伝(しょかけいずでん) 』という史料にも、天王山の攻防が登場する。注目したいのは、中川家がまとめて幕府に提出した清秀の情報だ。「明智反逆の時、清秀、秀吉の先手をいたし、山崎の山上にして合戦し、敵の先手大将三牧三左衛門・伊勢伊勢守を討(ち)とる、これによりて明智敗北す」とある。中川清秀が秀吉軍の 先鋒(せんぽう) として天王山で戦い、敵将の 御牧(みまき)景重(かげしげ) と伊勢 貞興(さだおき) を討ち取り、この勝ちによって光秀軍を敗北に追いやったと記しているのだ。

 この記述に従えば、天王山の勝ち負けが山崎の合戦全体の帰趨を決したことになる。しかし、中川家が家の由来を提出する際に先祖の活躍を誇張したとも考えられ、 () 呑みにはできない面もあるが、『寛永諸家系図伝』には池田 恒興(つねおき) の項にも、「清秀先山にのぼりて、明智が先手松田とたゝかつて勝利を得る」という記述がある。恒興は清秀と同じ摂津を拠点とする「摂津衆」だが、池田家がわざわざ清秀の武功を偽る必要性は乏しく、この情報は信じてよかろう。要するに、天王山で中川清秀率いる秀吉軍が、松田政近率いる光秀軍の先鋒隊を撃破したというのは史実と見なせるのだ。

 天王山の攻防については、イエズス会宣教師のルイス・フロイス報告書『1582年日本年報補遺 信長の死について』も貴重な情報を載せている。少し長いが、引用したい。

 「彼ら(先鋒の摂津衆たち)のあいだで取り決めた協定は、そのときまでジュスト(高山 右近(うこん) )の大敵であった彼らのうちの一人(中川清秀)が和睦して山上を行進し、池田殿(恒興)という名のもう一人は、これらの地方において最も水量が豊かで大河である淀川に沿って彼の軍隊を率い、ジュストはその中間となる山崎の村に (とど) まることであった。ジュストが村に入り、明智(光秀)が大変近くに来たことを知ると、彼(右近)はまだ3レグア以上後方にいた羽柴(秀吉)殿に、できる限り急ぐように急いで伝言を送った」

高山右近(『太平記英勇伝』東京都立図書館蔵)
高山右近(『太平記英勇伝』東京都立図書館蔵)

 キリシタンの高山右近と 昵懇(じっこん) だったイエズス会宣教師も、天王山で秀吉軍を指揮したのは中川清秀だったと認識している。「3レグア(約15キロメートル)以上後方にいた」秀吉が山崎へ到着する前に、天王山は先鋒隊の中川清秀が押さえていたという。尼崎(現・兵庫県尼崎市)にいた秀吉は、決戦前日の6月12日、 富田(とんだ) (現・大阪府高槻市)に着陣している(『金井文書』)。富田と山崎は直線距離で10キロメートル余りなので、厳密には2レグア後方なのだが、この点は土地鑑を持たないフロイスの誤記だろう。

 天王山の秀吉軍を率いた武将について、『川角太閤記』は中村一氏、『太閤記』は堀尾吉晴としているが、『寛永諸家系図伝』やフロイス報告書などによると、秀吉軍を率いたのは中川清秀だった可能性が高い。清秀は天王山で松田政近率いる光秀軍の先鋒隊と交戦し、勝利を収めたのだ。

敗者側の証言『乙夜之書物』

 これまで見てきた史料は、秀吉側、すなわち「勝ち組」の記録である。「負け組」である光秀側の史料にも天王山の攻防を確認できれば、戦いがあった蓋然性はより高まる。そこで取り上げたいのが、近年になって注目され始めた『 乙夜之書物(いつやのかきもの) 』という史料である。

『乙夜之書物』は、加賀藩の兵学者である関屋政春が、自ら見聞した500余りの様々なエピソードを 寛文(かんぶん) 9~11年(1669~71年)にまとめたものだ。その中に、光秀家臣の 進士(しんじ) 作左衛門が、息子の2代目作左衛門(加賀藩士)によく話していた山崎の合戦の模様を政春が聞いた内容が記されている。進士作左衛門は、山崎での大敗で勝龍寺(現・京都府長岡京市)へ落ちのびる際に光秀の馬が負傷したため、自分の馬に光秀を乗せ換えたと伝わる人物だ(『 武家(ぶけ)事紀(じき) 』)。『乙夜之書物』が後年、政春が (また) 聞きした内容に基づいて書かれているとはいえ、敗者側の証言に基づく山崎の合戦の貴重な情報であることは間違いない。

 それによると、6月13日に合戦があり、光秀は本陣を 御坊塚(おんぼうづか) (境野一号墳もしくは 恵解山(いげのやま) 古墳と推定されている)に置いた。先鋒隊の兵は山崎に至り、山崎の後背にあたる天王山に松田政近の部隊を差し向ける。松田勢が8分目まで上がった時、山の上に人影を見た。敵か味方かと探りを入れていたところに、人影は2人になり3人になり、と次第に増え、松田勢へ向かって鉄炮を放ち出した。松田勢が苦戦しているとみた光秀は味方に援軍を命じたが、助けに向かう者は一人もいない。そうこうしているうちに、松田勢は追い立てられて少しずつ山の下の方へ退き、ついには敗走を余儀なくされたという。

天王山の衝突はあったが…

 進士作左衛門という光秀軍の兵卒のこの証言で、松田政近率いる光秀軍が天王山で秀吉軍(率いた武将は具体名が書かれておらず不明)と交戦して敗走したことが、「負け組」の史料でも補える。『寛永諸家系図伝』の情報もふまえると、松田勢は山上で秀吉軍の中川清秀勢と遭遇して鉄炮で銃撃され、孤立無援のまま大敗を喫し、御牧景重や伊勢貞興ら光秀方の武将たちが討ち死にしてしまったことは史実と見ていいのではないか。

天王山から山崎合戦場をのぞむ
天王山から山崎合戦場をのぞむ

 この戦いが山崎の合戦全体の勝敗を決したかのような筋書きは、『乙夜之書物』にも出てこない。帰趨を分けたと記すのは、『寛永諸家系図伝』の中川清秀の項だけで、それは子孫の中川家による誇張と考えられる。つまり、天下分け目と呼ばれる「天王山の戦い」はなかった。しかし、午後4時以降に行われた決戦に先立ち、午前中に天王山で両軍の衝突はあったとみてよいのではないか。天王山の戦闘が当時の秀吉の書状や『 惟任退治記(これとうたいじき) 』といった同時代史料に全く記されていないのは、決戦前の序盤の小競り合いだったため、あえて取り上げる必要がなかったと捉えることもできる。ただ、天王山の攻防が光秀軍の 出端(ではな) をくじき、全体の士気に打撃を与えた可能性は十分あるだろう。

 以上、史料に基づいた考察を踏まえると、「天王山」という慣用句は、「勝負や運命の分かれ目」の時ではなく、「重要な局面に至る序盤戦」などの時に使う方がふさわしい。プロ野球で例えるなら、今シーズンの流れを占う序盤の首位攻防戦あたりを「天王山」と呼ぶ方が、史実に即していると思うのだが、いかがだろうか。いずれにしても、コロナ禍が収まれば、筆者も現地に足を運び、あらためて天王山の歴史に思いを () せたいと思っている。

主要参考文献
『日本歴史地名大系 第26巻 京都府の地名』(平凡社、1981年)
萩原大輔『異聞 本能寺の変―『乙夜之書物』が記す光秀の乱―』(八木書店出版部、2022年)


 『乙夜之書物』の本能寺の変に関する記述を萩原さんが丁寧に読み解いて解説する『異聞 本能寺の変』(八木書店出版部)が3月22日に発売されました。税込み3080円。詳しくは こちら








プロフィル
萩原 大輔氏( はぎはら・だいすけ
 1982年生まれ、滋賀県出身。山口大学人文学部卒業、京都大学大学院文学研究科修士課程修了。博士(文学・京都大学)。2009年4月富山市郷土博物館へ着任。20年4月より現職。東京大学史料編纂所共同研究員。越中史壇会研究委員。加賀藩研究ネットワーク運営委員。

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